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私の第三十四夜をつづります。

“筥根山”と“西富”

 今回、湯坂路を歩き、箱根権現に改めて興味をもった。
 そして、箱根権現や走湯権現の縁起に、大磯町の高麗権現(高来神社)が係っていることを知った。
 歌人相模の走湯権現参詣ルートを探すなかで、これらの三つの聖地をつなぐ道(線)が、自然と浮かびあがってきたように思う。
これまで、11世紀初頭における歌人相模の走湯権現参詣ルートとして、次の二つを想定してきた。
 
相模湾岸ルート:
 平塚-大磯-早川-伊豆山(走湯権現)
*箱根越えルート:
 平塚-大磯-早川-風祭-湯坂-元箱根-箱根峠-日金山-岩戸山-伊豆山(走湯権現)
 
そして『相模集全釈』をたよりに走湯奉納百首を読み進むうちに、箱根越えルートの可能性はないと考え、相模湾岸ルートを自分の足で確かめようと試みてきた。
そのなかで、しだいに平安時代の大磯・早川・伊豆山、そして箱根山の地域について、自分なりのイメージをもちたいと思うようになった。(平安時代相模国府平塚の景観イメージもできていないのだが。) 
そして、湯坂路から帰ったあと、『筥根山縁起 并序』(12世紀末に成立したとされる)の拾い読みを始めると、印象的な文字が目に入ってきた。
それは『筥根山縁起 并序』の冒頭の次のような箇所だ。
 
「原夫扶桑之津、湘江之西。相州西富郡足柄。有勝絶仙窟。…」
「…西汀名駿河。南岸号伊豆地。東浜名相模津…。」
 
まず、前者の「西富」は、吉田東吾氏の「中世 私称の郡号にて、専ら箱根山中を指せるが如し」【註1という解釈のもとになっている記述だ。
また、後者の駿河・伊豆・相模三国にまたがる“筥根山”についての記述は、東西を相模湾駿河湾に画され、南に伊豆を控える“筥根山”の立地イメージを的確に捉えているものだ。
この『筥根山縁起 并序』の記述に新鮮な印象をもつ一方で、”筥根山”を眼にしたであろう『相模集』や『更級日記』の作者たちについても思い出した。
私はこれまで、足柄峠を往来した歌人相模や菅原孝標女は、箱根山から伊豆にかけての山並みについて、おそらく地理的には曖昧な形で把握していたのだろう、と感じてきた。
東国に下向した彼女たちは、相模湾側から見る西の山並みを、旅先の自然景観の一つとして、たとえば“屏風をたてならべた”ような山並み…として眺めていたと思うのだ【註1】。
こうした“筥根山”一帯の捉え方を、雑駁にまとめると次のようになる。
 
11世紀初頭:
 *相模湾側から見る西の山並み一帯を「にしとみ」と呼んでいた可能性がある
平安時代末期~中世:
 *“筥根山”は「西富郡足柄」の地にあると認識されている
 *「にしとみ」は「私称の郡号にて、専ら箱根山中を指せる」地名として、より限定的に用いられている可能性がある
 
こうしてみると、11世紀初頭では、箱根山から伊豆にかけての一連の山並みとして認識されていた地域が、平安時代末には、おそらく政治や信仰が絡む交通の要衝として“筥根山”の立地の重要性が増し、その結果、『筥根山縁起 并序』冒頭の「…西汀名二駿河津一。南岸号二伊豆地一。東浜名二相模津一…。」の明確な記述になったように思えてくる。
(ただ、『筥根山縁起 并序』の「相州西富郡足柄」については、「足柄」と「箱根」の包含関係が逆転しているように感じる。つまり、『万葉集』における「足柄の土肥の…」・「足柄の箱根…」という捉え方などからは、「相州足柄郡西富」となるように思うのだが。それとも、“筥根山は西富郡のなかでも足柄に近い”という捉え方をすれば「相州西富郡足柄」になるのだろうか?)
 
なお、これもまた素人の想像に過ぎないが、歌人相模が菅原孝標女と同様に、箱根山から伊豆にかけての山並みを「にしとみ」と認識していた場合、『相模集』で
 
「みやまなる とみくさのはな つみにとて ゆるきのそてを ふりいてゝそこし」
歌われている“とみくさ”について、「とみくさ」=「土肥(とひ)の草」と掛けている可能性も出てくるように感じた。
この場合、“ゆるきのそて”は「ゆるい袖」=「余綾(ゆるき)のたもと・ふもと」と掛けているのでは? という解釈の可能性【註2】ともつながるように思われるのだ。
果たして、歌人相模は“筥根山”と“伊豆山”を地理的に区別していたのだろうか。“伊豆山”を“にしとみの南”として把握していたのだろうか。
同時代人とも言える歌人相模と橘為仲【註3】とが「はこね」と記す時、その「はこね」は同じ「はこね」だったのだろうか。謎はそのままだ。
 
【註1
≪…「『更級日記』の中の「相模」」(実川恵子 『神奈川の伝承と文学(3))の論考では、「中世 私称の郡号にて、専ら箱根山中を指せるが如し、西土肥の義にて、訛りて西土美と為れるなり」(吉田東吾『大日本地名辞書』)をもとに、「にしとみ」=「西土肥」の解釈について言及されている。 この『更級日記』の「にしとみ」を「西土肥」と解釈する視点も、『相模集』の「はこね山」に「伊豆山」が含まれるのでは、という想定と通じるように思う。 つまり、”西土肥”が”箱根山中”を指すならば、”伊豆山”を”南箱根”ととらえてもよいのではないか、と強弁できそうに思うのだ。…≫
2014.4.3走湯参詣ルート5~道草①~から)
【註2
「みやまなる とみくさのはな つみにとて ゆるきのそてを ふりいてゝそこし」〔相模の歌〕
「わかやとの とみくさのはな つまゝせは さかへをひらく 身とそなるへき」〔僧の返歌とされる歌〕
「さきのよに たねうへをかぬ みなれとも なをつみゝてむ とみくさのはな」〔相模の返歌〕
「みやま(御山=走湯権現か)」に生える「とみくさ(富草=幸いをもたらす草か)」を摘みにふり出てきたのです・・・と歌う中で、「ゆるき」の語が使われていることが興味を引く。「ゆるき」の語が、もし「余綾」に掛けているならば、(大住郡平塚の地ではなく)余綾郡に所在する「やど」を出立した、という可能性が生まれないだろうか。…≫
(2012.4.11覚書:歌人相模の道(2)から)
【註3】
≪…*橘為仲〔?~1085
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ (『為仲集』)…≫
(2014.11.21平安時代の箱根路(筥荷途)とは? から)