これまでも、サークルの仲間たちと遺跡を巡りながら、こうした古道を何回か訪ねてきた。
2004~2005年は、武蔵国府までを歩いた。
歌人相模が走湯参詣時に、仮に(あくまでも仮に…)箱根を越えて熱海・伊豆山に向かった場合、そのルートはこの「筥荷途?」・「湯坂路」である可能性が考えられるからだ。9世紀初頭(延暦21~22年)時点での「筥荷途?」が、11世紀代にも使われていたならば、それはそのまま、源頼朝の二所詣ルート、鎌倉古道として引き継がれてゆくことになる。
一方、歌人相模の走湯参詣路を海沿いルートと想定する私にとって、迂回的な「筥荷途?」・「湯坂路」は歌人相模が採ったルートには当たらないと考えている。といっても、やはり「筥荷途?」・「湯坂路」とはどのような古道なのか、自分の足で確かめなくてはならない。そして、冷え込んだ14日朝、「湯坂路」の一部を実際に歩くことになった。
その印象は、江戸時代の旧東海道よりは平易な道のようだ、という雑駁なものだった。
そして、箱根越えだけの目的、あるいは箱根権現を経てから走湯権現に向かう目的であれば、歌人相模も、この「筥荷途?」・「湯坂路」を選んだ可能性があったかもしれない…そんな風にも感じた。また今回、「筥荷途?」・「湯坂路」はどのように使われてきた道なのだろう、と改めて興味を持った。
「湯坂路」-精進池
「湯坂路」-精進池の裏山の上にかかる下弦の月
鷹巣山までの「湯坂路」
「湯坂路」から見る大山-右手には相模湾も望めた