*藤原元真〔生没年不明〕
242 風吹けば はこねの山の たまこすげ なびきてわれに こころとどめよ (『元真集』)
*曾禰好忠〔生没年不明〕
268 はこねやま ふたごのやまも 秋ふかみ あけくれかぜに このはちりぼふ (『好忠集』)
*相模〔991?~1061以降〕
*橘為仲〔?~1085〕
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ (『為仲集』)
十月十日、きよみがせきにとまりたるに、月いとあかし
135 岸ちかく なみよる松の このまより きよみがせきは 月ぞもりくる
おなじ廿一日、むさしのよこ山といふ所をすぐるに、もみぢいとおもしろし
137 紅葉ばの かかる夕べを過行くと 古里人に つげもやらばや
*大江匡房〔1041~1111〕
242 箱根山 うすむらさきの つぼすみれ 二しほ三しほ たれか染めけん(『堀河百首』)
「二十八日、伊豆の国府をいでて箱根路にかゝる。いまだ夜ふかかりければ、
玉くしげ 箱根の山をいそげども なほあけがたき よこぐものそら
足柄の山は、みちとほしとて箱根路にかゝるなりけり」
このように平安時代の「はこねの山」の歌を巡って、“箱根路”(筥荷途)が勝手に展開してゆく。しかし、橘為仲の136の歌は、あくまでも“箱根山麓“に留まったことを示すだけで、“箱根路”(筥荷途)を歩いたことを示してはいない。
【註】136の歌では「はこねの山に 出づる月かげ」とあるので、おそらく三島側の箱根山麓で、箱根山から昇る月(満月前後だろうか?)を望んだと推定した。仮に「はこねの山にかかる月かな」という歌であったならば、湯本側から見た月である可能性、橘為仲が駿河国・清見が関から“箱根路”(筥荷途)を通って、武蔵国・横山に向かった可能性も考えられるかもしれない。
当初、10~11世紀の歌人たちが詠んだ“はこねの山”は、実体のない“借り物”の言葉などではなく、当時の人々が何かしらの感慨を託す素材になっているように感じた。そして、その“はこねの山”の歌のなかに、“箱根路”(筥荷途)を往来した平安時代の旅人たちの足跡を探そうとしたのだが、結局、果たせなかった。
現時点では、平安時代の“箱根路”(筥荷途)が、足柄峠越えに代わるルートとして併用されていた可能性を見いだせなかった。今後、平安時代の“箱根路”(筥荷途)の在り方が、遺跡や遺物といった考古学的な視点などから、少しでも明らかになることを期待したいと思う。
(追記:今回調べる中でも、歌人相模が百首を奉納した社を箱根権現とする地名辞典や和歌辞典がいくつかあった。その解釈において、歌人相模が“箱根路”(筥荷途)を辿ったと想定しているのであれば、その根拠はどういうものなのだろうか?)
「はこねやま 湯坂のみちも 秋ふかみ あけくれかぜに もみぢちりしく」(本歌まるごと…)