enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

平安時代の箱根路(筥荷途)とは?

この秋、「湯坂路」を歩いたことで、平安時代の“箱根路”(筥荷途)の在り方に関心を持った。そこで、『新編国歌大観』を開き、平安時代の“箱根路”(筥荷途)を詠んだ歌があるだろうかと探してみた。
限られた時間の中では“箱根路”(筥荷途)そのものを詠んだ歌を探すことはできなかったが、歌人相模が生きた時代(1011世紀)に「はこねの山」を詠んだ歌をいくつか選び出すことができた。
 
1011世紀に活動した歌人が「はこねの山」を詠んだ歌】
 
藤原元真〔生没年不明〕
242 風吹けば はこねの山の たまこすげ なびきてわれに こころとどめよ (『元真集』)
 
曾禰好忠〔生没年不明〕
268 はこねやま ふたごのやまも 秋ふかみ あけくれかぜに このはちりぼふ  (『好忠集』)
 
*相模〔991?~1061以降〕
315 あけくれの 心にかけて はこね山 ふたとせみとせ 出でぞたちぬる (『相模集』相模)
417 はこね山 あけくれいそぎ 来し道の しるしばかりは ありとしらせむ (『相模集』走湯権現僧)
519 ふたつなき 心に入れて はこね山 祈る我が身を むなしがらすな (『相模集』相模)
 
橘為仲〔?~1085
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ (『為仲集』)
 
【註】136の“はこねの山”の歌と一連の前後の歌として、次の“清見が関”や“横山”の歌がある。
 
十月十日、きよみがせきにとまりたるに、月いとあかし 
135 岸ちかく なみよる松の このまより きよみがせきは 月ぞもりくる
 おなじ廿一日、むさしのよこ山といふ所をすぐるに、もみぢいとおもしろし
137 紅葉ばの かかる夕べを過行くと 古里人に つげもやらばや
 
大江匡房10411111
242 箱根山 うすむらさきの つぼすみれ 二しほ三しほ たれか染めけん(『堀河百首』)
 
 これらの歌を眺めると、縁語を駆使した歌人相模の315の歌を除いて、他の歌人たちの歌は、縁語を使いながらも、“箱根山”の実景を念頭において詠んでいるように思われた。
ことに、橘為仲136の歌は、陸奥守として下向する旅のなかで詠まれたものとされ、古代道ルートという視点からも興味深く、“箱根路”(筥荷途)に係わる可能性がある歌なのでは、と注目した。
 
橘為仲箱根山麓で泊まった地点はどこか?
11世紀の時代、箱根山麓で宿泊したあと、橘為仲足柄峠を越えたのだろうか?
・それとも、13世紀末の阿仏尼が『十六夜日記』で次のように記したように、橘為仲足柄峠越えに代わるような“箱根路”(筥荷途)を通って、湯坂山へと向かったのだろうか?
「二十八日、伊豆の国府をいでて箱根路にかゝる。いまだ夜ふかかりければ、
玉くしげ 箱根の山をいそげども なほあけがたき よこぐものそら
足柄の山は、みちとほしとて箱根路にかゝるなりけり」
 
このように平安時代の「はこねの山」の歌を巡って、“箱根路”(筥荷途)が勝手に展開してゆく。しかし、橘為仲136の歌は、あくまでも“箱根山麓“に留まったことを示すだけで、“箱根路”(筥荷途)を歩いたことを示してはいない。
 
【註】136の歌では「はこねの山に 出づる月かげ」とあるので、おそらく三島側の箱根山麓で、箱根山から昇る月(満月前後だろうか?)を望んだと推定した。仮に「はこねの山にかかる月かな」という歌であったならば、湯本側から見た月である可能性、橘為仲駿河国清見が関から“箱根路”(筥荷途)を通って、武蔵国・横山に向かった可能性も考えられるかもしれない。
 
 
当初、1011世紀の歌人たちが詠んだ“はこねの山”は、実体のない“借り物”の言葉などではなく、当時の人々が何かしらの感慨を託す素材になっているように感じた。そして、その“はこねの山”の歌のなかに、“箱根路”(筥荷途)を往来した平安時代の旅人たちの足跡を探そうとしたのだが、結局、果たせなかった。
現時点では、平安時代の“箱根路”(筥荷途)が、足柄峠越えに代わるルートとして併用されていた可能性を見いだせなかった。今後、平安時代の“箱根路”(筥荷途)の在り方が、遺跡や遺物といった考古学的な視点などから、少しでも明らかになることを期待したいと思う。
(追記:今回調べる中でも、歌人相模が百首を奉納した社を箱根権現とする地名辞典や和歌辞典がいくつかあった。その解釈において、歌人相模が“箱根路”(筥荷途)を辿ったと想定しているのであれば、その根拠はどういうものなのだろうか?)
 
イメージ 1
はこねやま 湯坂のみちも 秋ふかみ あけくれかぜに もみぢちりしく」(本歌まるごと…)