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私の第三十四夜をつづります。

「ともし」する「箱根山」

 昨秋、「箱根山」の実景が浮かぶような歌を詠んだ平安時代歌人を何人か拾い出してみた(「平安時代の箱根路(筥荷途)とは?」〔20141121日〕)。
今回、在原業平(「箱根山の月」201526日)と橘 俊綱・源  俊頼を新しく加え、並べ直した。
(『相模集』315417519の「箱根山」は、実景を離れた観念的な使い方と感じるけれども、11世紀に足柄関を越えた歌人相模の、ほかでもない「箱根山」の歌であるので残した。)
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在原業平825880〕 
918 秋の夜の 月のひかりし きよければ はこねの山の うちさへぞてる 
    『古今和歌六帖第二』
 
藤原元真〔生没年不明〕:961(従五位下
242 風吹けば はこねの山の たまこすげ なびきてわれに こころとどめよ  
   『元真集』
 
曾禰好忠〔生没年不明〕註:977 (丹後掾)
268 はこねやま ふたごのやまも 秋ふかみ あけくれかぜに このはちりぼふ 
   『好忠集』
 
*相模〔991?~1061以降〕
315 あけくれの 心にかけて はこね山 ふたとせとせ 出でぞたちぬる  
    相模 『相模集』
417 はこね山 あけくれいそぎ 来し道の しるしばかりは ありとしらせむ
   〈走湯権現僧〉 『相模集』
519 ふたつなき 心にいれて はこね山 祈る我が身を むなしがらすな   
    相模 『相模集』
 
*橘 為仲〔1014?~1085
同じ十四日、はこねの山のふもとにとどまりたるに、月いとあかし
136 朝ごとに あくるかがみと みゆるかな はこねの山に 出づる月かげ   
   『為仲集』
 
*橘 俊綱10281094
    照射をよめる
140 ともしして はこねの山に あけにけり ふたよりより あふとせしまに 
   『金葉和歌集』三奏本
 
大江匡房10411111
242 根山 うすむらさきの つぼすみれ しほしほ たれか染めけん   
   『堀河百首』
 
*源 俊頼1055?~1129
    雪朝眺望
671 ながめやる はこねの山を たがために あくれば雪の ふりおほふらむ  
   『散木奇歌集』
 
 新しく加えた「橘俊綱」は、歌人として「能因」や「源 経信」と交流があったという。
また、「源 俊頼」は、「源 経信」…入道一品宮邸で「相模」と歌を交わした歌人…の三男であり、「橘 俊綱」の養子であった時期があるという。
生きた時代が11世紀のなかで少しずつ重なるからなのか、相模、為仲、俊綱、俊頼たちは、歌の世界の「箱根山」で振れ合い、“多生の縁”を生じているようだ。
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当初、平安時代に詠まれた「箱根山」の歌を集めることで、当時の“筥荷途”の何かが見えてくるのでは?という期待があった。
「あける」・「ふた」・「み」などの縁語にひきずられるだけの「箱根山」が、時代が下がるにつれて、実景の裏付けをもった「箱根山」になってゆく…そんな変化が見えるのでは?という期待があったのだ。
結果、現時点では、橘 為仲のほかには「箱根山」の実景をふまえた歌と言えそうなものは見つかっていない。
ただ、東海道の旅の経験が集約・蓄積するなかで、文化果つる東国の入口にそびえる「箱根山」について、都の人々の認知が深まっていたのではないか、という印象をもった。ことに11世紀には、「箱根山」の地名をなめらかに詠み込むようになった…そうした変化がうかがわれるように感じた。
その一つが、今回加えた「橘 俊綱」の歌…“箱根山で鹿狩りをして灯したかがり火”を詠んだ歌ではないだろうか。それがたとえ実景ではないとしても、“箱根山の鹿狩りの照射”という非日常的な歌材…箱根山の雪月花(月、菅、木の葉、菫、雪など)から、一歩踏み込んだようなテーマ…を選んでいることが、11世紀の人々の「箱根山」の認知の深まりを想像させるように感じた。