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私の第三十四夜をつづります。

『閑谷集』のなかの「伊豆山」(5)

 考古学のみならず、歴史・日本文学の基礎を持たない私が、『閑谷集』の作者の周辺について、あれこれと想像をめぐらしてみた。
(歌語として使われる「真野」を知らずに、「まの」=馬野などと早とちりのイメージを描いた。)
 とはいえ、作者の周辺について詠んだ歌のなかで、「まののかやはら」・「まののはまぢ(…いりえ)」の歌語が何度か使われたのは、作者が移り住んだ「おほはた」の地に、「まの」という歌語が導き出すイメージが備わっていたのだろうと思う。

今回、私が思い描いた“作者の周辺”のささやかなイメージをまとめると、およそ次のようなものになる(「馬野」と同じような勘違いが含まれると思うが)。
 
*作者の草庵は富士山麓の草深い山里にあり、檜の板葺きの家だった。
*「おおはた」には、涅槃会や文殊講で人々が集まって歌を詠んだり、夜を明かすような場所があった。
 作者はそうした法会を執り行う人であり、人々が歌を詠みあう場での指導的存在だったのではないだろうか。
*「日よしのみや」でも、人々が集まり歌を奉納する場があった。
*作者の草庵は、「あしたかのみや」や「日よしのみや」に頻繁に参詣できる距離にあった。
207248の「うきしまがはら」や「北条御供養…そのにはばかりをだにもふまむ」の詞書から、作者は「(八万きのたふをたてはべりける)うきしまがはら」(現在の浮島ヶ原だろうか)や、「北条御塔供養のはべりける」屋敷(北条氏邸があったという現・伊豆の国市あたりだろうか?)にまで赴いていること、4647の歌から、伊豆山にまで足をのばしていることがうかがわれる。
 
彼は、能因のように受領クラスの友人と交流したり日本各地を巡ることもなく、歌人相模のように都の歌壇で評価されるような歌を詠むわけでもなく、「かずならぬ ささがにの いと おろおろ かきつらねて思ひをのぶるなり」として、自身をふりかえり、日常の飾らない歌の数々を残した。
今回、偶然にそれらの歌に出会うことができて良かったと思う。平安時代末期(というより中世)の「おほはた」や「みやこ」や「伊豆山」に、人々が確かに生きていたことを、少しだけ知ることができたように思うから。
 相模国府から歌人相模に導かれ、伊豆山、筥荷途、そして駿河国へと、ますます相模国府を離れた場所ををさまようようになった。これも旅の一つのあり方なのだと思う。
 最後に、『閑谷集』の巻頭の歌を『新編国歌大観』から引用させていただく。

 
「みやこにすみけるころ、ある人のもとより、梅のはな をりておこせよ、これにある花に見くらべん と  いひつかわされたりければ、をりて やるとて、枝にむすびつけける

 1 君がすむ 軒ばの梅ぞ なつかしき うすくれなゐに 匂ふとおもへば 」