enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

宝城坊本堂見学会

 22日朝、伊勢原市日向薬師・宝城坊本堂を見学した。2011年から始まった解体修理工事も完成まであと2年となり、全工程の3分の1を残す段階に入っていた。私にとって、2011年・2012年の見学を経て、久しぶりの見学会だった。
現場の素屋根の下に入ってまず驚いたのは、小屋組みの拮木の立派さだった。前回、解体段階で見た拮木(?)は、素人目にもひどく弱々しいものだった。短く細い曲がった丸太材がバラバラと無造作に置かれている…これが梃子の役目を果たす“拮木”というものなのだろうか…そんな印象だったと思う。
 今回は、すでに軸組みが立ち上がり、野屋根に巨大な新しい拮木がずらりと重々しく入っていた。前回見た拮木(?)の数倍の太さに思えた。その迫力ある重量感を目の前にして、逆に心配になった。こんなに重そうな部材が載って、軸組みに再利用されている補修材などは耐えられるのだろうかなどと。
 この見学会では、工事工程の写真や図版、大工道具、龍・象・獅子が彫刻された部材などを身近に見学しながら、専門の方々から詳しい説明を受けることができた。
(見学者たちの足元に伏せるように並んだ獅子たちは、それぞれ異なる髪型?と顔つきをして愛らしく見えた。)
 これらの解説のなかで新しく知ることができたのは、康暦2(1380)年に行われた日向山霊山寺の堂宇修造において、鎌倉時代に伐採された部材が再利用されていたことだった。旧本堂の前身建物の存在として、実際に鎌倉時代までさかのぼる可能性がある、ということのようだ。では、歌人相模が参籠した平安時代まであと一歩、いや数歩さかのぼる痕跡もどこかに残されていないだろうか、とささやかな期待をもった。また、宝物殿で行われた多くの重要文化財の詳しい解説では、鎌倉時代平安時代日向薬師の景観までもが浮かび上がるようだった。
 2014年をしめくくるような貴重な見学会のなかで、歌人相模の周辺を巡る私は、日向山に残されてきた厨子や仏像群を通して、改めて歌人相模が参籠した時空間に近づくことができた。いつの日か、日向薬師から出土した平安時代の布目瓦片や土器片などを見学する機会もあるかもしれない。
 御堂の裏手からゆるやかに下る坂道では、晩秋の空気の中にカツラの黄葉の甘い香りがあった。あたりを探すと、谷側に葉を落としたカツラの木々がすらりとした姿で並んでいた。思えば、日向薬師のご本尊である鉈彫りの薬師三尊像は、カツラ材の一木造りなのだった。
 
紅葉半ばの日向山
イメージ 1