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私の第三十四夜をつづります。

走湯参詣ルート8 ~道草③~

 昨日、走湯参詣ルートについて調べながら、改めて、そもそもの疑問(迷い)について考えさせられた。2012年5月31日の時点で、私は次のようなことを考えていたのだった。2年前の思い込みが確信になっている現在、その疑問(迷い)を解消しておこうと思う。
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・・・歌人相模と”走湯百首”を伊豆山神社に結びつけてきたのは私の思い込みでしかなく、『相模集』の詞書からは「走湯」と「筥根」のどちらの「権現」を想定すべきなのかは分からない。ただ、箱根神社伊豆山神社の立地を実際に比べることができた今、改めて、歌人相模が訪れたのは伊豆山神社であったように思う(思い込みが強くなっただけなのだが)。
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 2014年4月の現在、図書館に通って、相模国府から伊豆山神社へのルートを調べるなかで、背表紙に「箱根」や「湯河原」や「真鶴」の文字のある本をいくつか手に取った。
 昨日、そうした本のなかに箱根権現について詳しく書かれた一冊があり、歌人相模について触れられている一文が目に留まった。そこでは、歌人相模は箱根権現に参詣したものと解釈されていた。おや、と思った。私のなかで、歌人相模と箱根権現とを結びつける回路はすでに消えていたからだ。
 歌人相模と箱根権現とは果たして結びつくものだろうか(註)歌人相模の研究が進んだ今、もはや、その結びつきは過去のものではないだろうか。
 
 (註)歌人相模と箱根権現とを結びつける背景には、歌人相模が箱根の坂を通ったとの解釈があるのだろう。一方、歌人相模が走湯権現に参詣したとの解釈においても、箱根越えルートを想定すれば、途中で、中世の二所詣と同じように箱根権現に参詣した可能性を想定できるのかもしれない。ただ、相模湾岸沿いルートを探る私としては、その箱根越えルートの可能性は低いと考えている。
 
 図書館の中をうろうろする。『日本古代中世人名辞典』(吉川弘文館 2006)や、『大柴遺跡』(箱根町教育委員会 2003)などの発掘調査報告書なども手に取った。やはり、普遍的な人名辞典や考古学的文献でも、歌人相模は箱根権現に参詣したものと解釈されていた。『相模集全釈』刊行後の、これらの比較的新しい本でもまだ? と思う。それとも、分野が異なると解釈も異なるのだろうか。
 
 ここはやはり、『相模集全釈』に立ち戻るしかない。
 『相模集全釈』(武内はる恵 林マリヤ 吉田ミスズ 風間書房 1991)より、一連となる316・418・520の3首を引用させていただく。
 
【雑の部】
 316  あづまぢに 来てはくやしと 思へども 伊豆にむかふぞ うれしかりける   (相模)
 418  なに事か くやしかるべき 伊豆に来て 身のさかゆべき かげを見つれば 
                                              (権現の御かへり)
 520  くやしさも 忘れられやせむ 足柄の関のつらきを いつになりなば       (相模)
 
 これらの一連の3首を見る限り、歌人相模が向かったのは「伊豆」であると解釈すべきだろうし、百首歌を奉納した地は現在の伊豆山神社と考えるほうが自然だ。ことに、”権現僧の御かへり”とされる418の歌は、箱根権現の僧の歌としては成り立たないだろう。
 もし、今も残る「歌人相模は箱根権現に参詣した」という解釈と折り合うとすれば、「歌人相模は”箱根山”に連なる山並みの”走湯権現に参詣した」ということになるだろうか(素人の強引で僭越な解釈になるけれど…)。