いよいよ京都・三日目の朝。平塚に帰る日でもある。
念願の京都だったのだ。まだまだ未練が残る。
ただ、若い頃には、二週間の旅も当たり前だったというのに、相当身体がへたってしまった。今回はこの辺で帰るのが良いのかな、とも思う。三日目のプランを思い描きながら、帰り支度をした。さあ、今日も歩かなくては。再び、すべての荷物を抱えて、ホテルを出る。
これから歩くコースでは、以前訪れたことがある地域を通る。
それでも、何度か道を誤まった。一条戻橋は二度通った(本当に戻り橋だった)。詳しい地図(「平安京図絵 史跡散策の巻」や「上京を歩く 其の弐」など)を見ながら歩いているのに。
源 頼光邸跡(碑から、一条邸の地に、『蜻蛉日記』の世界も係わることが分かる)
歌人相模は、母とともに、この頼光邸に住まったのだろうか。
少なくとも、頼光の娘たち(藤原道綱室、源済政室、源資通室)は、この周辺で暮らしていたのだろうか。
この点について、『相模集全釈』(風間書房 1991年)では、次のように考察されている。
「…相模には兄弟姉妹は無かったものと推測される。母はその後源頼光の妻となった。ただし頼光には多くの妻妾がいたので、母は親の保章の邸に住んで頼光を通わせ、頼光の邸に住むことはなかったと思われる。相模は母と共に祖父保章の邸に住み、そこで養育されたものであろう。…」
このように、歌人相模邸の地は不明のままだ。今回の旅を終えて、自分なりに、どのあたりだったのか、想像をめぐらしている(そのような漠とした想像の時間が一番楽しい…)。
一条通の頼光邸、奥には一条戻橋と堀川通(頼光邸が平安宮の北東、一条大路と堀川小路が交差する地にあったことが分かる)