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私の第三十四夜をつづります。

左京(4)源頼光邸跡

 いよいよ京都・三日目の朝。平塚に帰る日でもある。
 念願の京都だったのだ。まだまだ未練が残る。
 ただ、若い頃には、二週間の旅も当たり前だったというのに、相当身体がへたってしまった。今回はこの辺で帰るのが良いのかな、とも思う。三日目のプランを思い描きながら、帰り支度をした。さあ、今日も歩かなくては。再び、すべての荷物を抱えて、ホテルを出る。

 四条から地下鉄烏丸線に乗り、今出川駅で降りる。
 交差点には同志社大学の校舎が建つ。ふと、かつて聴いた森浩一氏の講演のことなどを思い出す。向かいには京都御所の緑(せめて御苑のなかを歩いてみたかった)。
 地図を眺めながら、今出川通りを西の堀川通へと向かう。
 これから歩くコースでは、以前訪れたことがある地域を通る。
 京都市考古資料館、晴明神社、一条戻橋。丸太町通に出れば、京都アスニ―、平安宮の豊楽殿跡、大極殿跡、朝堂院跡など。
 それでも、何度か道を誤まった。一条戻橋は二度通った(本当に戻り橋だった)。詳しい地図(「平安京図絵 史跡散策の巻」や「上京を歩く 其の弐」など)を見ながら歩いているのに。

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源 頼光邸跡(碑から、一条邸の地に、『蜻蛉日記』の世界も係わることが分かる)
歌人相模は、母とともに、この頼光邸に住まったのだろうか。
少なくとも、頼光の娘たち(藤原道綱室、源済政室、源資通室)は、この周辺で暮らしていたのだろうか。
この点について、『相模集全釈』(風間書房 1991年)では、次のように考察されている。
「…相模には兄弟姉妹は無かったものと推測される。母はその後源頼光の妻となった。ただし頼光には多くの妻妾がいたので、母は親の保章の邸に住んで頼光を通わせ、頼光の邸に住むことはなかったと思われる。相模は母と共に祖父保章の邸に住み、そこで養育されたものであろう。…」
このように、歌人相模邸の地は不明のままだ。今回の旅を終えて、自分なりに、どのあたりだったのか、想像をめぐらしている(そのような漠とした想像の時間が一番楽しい…)。

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一条通の頼光邸、奥には一条戻橋と堀川通(頼光邸が平安宮の北東、一条大路と堀川小路が交差する地にあったことが分かる)