杉並木の暗い参道と石階段、奥社で見上げた狭い空…38年前に訪れた時の記憶は、遠い彼方に押しやられていた(今や、すべてがこんな具合…)。
当時、神社・仏閣を訪れても、”神仏習合”という視点や歴史的な視点というものを持ち合わせていなかった。ほとんどの場合、観光目的の立ち寄り先でしかなかったと思う。
ただ今回の旅では、その戸隠神社について新しい関心が加わった。そのきっかけは、参道脇に立っていた高札型の説明板だった。
そこには
「奥社院坊跡
嘉祥三年(八五〇年)以来 戸隠権現に奉仕した院坊の跡である
国有境内地になった為に ここにあった院坊は中社、宝光社に住居を移した 戸隠観光協会」
と書かれていた。
さらに、帰宅後に眼にした「<年表>戸隠顕光寺史関係年表」(牛山佳幸 『信州大学教育学部研究論集』第9号 2016年)のなかでは、11世紀の”戸隠顕光寺”にまつわる事項…能因・「能因歌枕」、『走湯山縁起』、橘為仲など…についても記されていた。
にわかに11世紀の”戸隠顕光寺”のあり方が頭のなかで渦巻き始めた。
ガイドさんの説明では、当地の考古学的な調査も行われたのだという。詳しいことは分からないけれど、おそらく、11世紀代の考古資料も出ていることだろうと想像する。
果たして、この参道を能因や橘為仲も歩いたのだろうか、石垣は何世紀の遺構なのだろうか…旅から帰った今になって胸が騒ぐ。
(当日は雨天のなかの団体ツァーということもあって、一人別れて確認することは叶わなかったけれど、石垣のほかにも、”講堂跡”の平地に礎石が多数残されているらしい。もし、改めて戸隠神社を訪れることがあったなら、ぜひ確かめてみたいと思う。)
奥社参道の随神門
奥社参道脇に残る石垣①
奥社参道脇に残る石垣②
奥社参道脇に残る石垣③(②のアップ)
奥社参道脇に残る石垣④
「奥社院坊跡」の一角