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私の第三十四夜をつづります。

林B遺跡の緑釉陶器(1)

 相模国庁跡の北600mほどに位置する林B遺跡については、まず、『平塚市史 11下 別編 考古(2)』(平塚市 市史編さん担当 2003年)で、次のように分析されている。
 
*第2地点の緑釉陶器の大量出土 → 整然と保管されていた大量の緑釉陶器が、火災後に廃棄されたもの
相模川の自然堤防上に立地し、相模国府域に近接した位置関係にあること → 相模国府の付属施設として、水運で運ばれた物資を荷揚げし、一時的に保管する施設が存在した可能性
 
 
 また、『検証 相模国府』(平塚市博物館 2010)では、次のように検証されている。
*多量の緑釉陶器の出土 → 連続的に任命された嵯峨源氏系の国司などによって、多量に相模国(国府)に運ばれたもの
*水上交通の要である相模川の安定した自然堤防上に営まれたこと → 「津所」として機能していた可能性
 
林B遺跡出土の緑釉陶器群
平塚市博物館 平成21年度春季特別展 『検証 相模国府』 の展示から)
イメージ 1
 
 この特別展では、林B遺跡出土の緑釉陶器のごく一部を展示したものと思われるが、復元された資料のほかに、山と積まれた破片の量からも、その特異な性格が感じ取れるように思う。
 はたして、林B遺跡の大量の緑釉陶器群は、「淳和院の家政機関が、尾張産緑釉陶器の生産と流通に関与していたのではないか」という仮説と係るものなのだろうか。もし係るとすれば、林B遺跡の実際の遺物から、その係わりが見えてくるものだろうか。
 そのような視点から、『平塚市内出土の緑釉陶器』(平塚市博物館 市史編さん担当 2001年)をもとに、これらの緑釉陶器のデータを、素人なりに見直してみた。少しでも何か確かめられることはあるのだろうか・・・。