*第2地点の緑釉陶器の大量出土 → 整然と保管されていた大量の緑釉陶器が、火災後に廃棄されたもの
*水上交通の要である相模川の安定した自然堤防上に営まれたこと → 「津所」として機能していた可能性
林B遺跡出土の緑釉陶器群
この特別展では、林B遺跡出土の緑釉陶器のごく一部を展示したものと思われるが、復元された資料のほかに、山と積まれた破片の量からも、その特異な性格が感じ取れるように思う。
はたして、林B遺跡の大量の緑釉陶器群は、「淳和院の家政機関が、尾張産緑釉陶器の生産と流通に関与していたのではないか」という仮説と係るものなのだろうか。もし係るとすれば、林B遺跡の実際の遺物から、その係わりが見えてくるものだろうか。
そのような視点から、『平塚市内出土の緑釉陶器』(平塚市博物館 市史編さん担当 2001年)をもとに、これらの緑釉陶器のデータを、素人なりに見直してみた。少しでも何か確かめられることはあるのだろうか・・・。