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私の第三十四夜をつづります。

「凡人部豊子丸」とは?

 8月26日、第6回平塚市遺跡調査・研究発表会に参加した。
(地元の遺跡の発表会が開始されてからすでに6回。今は、夏の終わりの楽しみになっている。)
 今回はとくに相模国府域の中枢遺跡の調査成果が並び、それぞれの遺跡にまた新たな謎が加わった。
 (遺跡にまつわる謎は増えるばかり。ただ、はっきりとした全体像が見え、答えが見つかってしまった途端、遺跡にまつわる魅力も消え去ってしまうに違いない…。)

 調査担当者の方々の詳しい発表を聞き、スライドを見て、遺跡のおよその姿をつかむ。そして、平塚市博物館に展示されている遺物の実物を見学する。

 その展示資料のなかでも、六ノ域遺跡第17地点30号土坑から出土した猿投産灰釉陶器と、そこに刻書された「凡人部豊子丸」の文字が問いかける謎は、私にとっては大きいものだった。
 出土地の特殊な性格(相模国府域の中枢遺跡)ということに留まらず、調査担当者の発表のとおり、産地(尾張国の猿投窯)の資料としても、大きな課題を投げかける遺物だと感じたから。
 刻書灰釉陶器の外見は、ごく普通の(?)の大量生産品のような印象。
 ややたわんだような形で、釉薬は薄い。
 塗り残された見込み部分いっぱいに、縦3行に繰り返す形で、「凡人部豊子丸」の文字がはっきりと刻まれている…研究者によって解読されているので、それらしく読めるだけなのだけれど…。
 (高台の形や器の高さは確かめられなかった。発表要旨等では黒笹90号窯式の碗とされている。)

 なお、刻書された「凡人部豊子丸」や30号土坑について、発表要旨では次のように言及されている。
 *「名前と考えられる文字」
 *「(30号土坑は)祭祀を想定させる様子は見られ(ない)」
 *「制作工人が自らの名前を記したとは考えにくいので、何故、産地(猿投)でそうした文字が刻まれたのか、また、どのようにしてそうした陶器がこの地(相模)にもたらされたのか、といった点などで興味は尽き(ない)」 
 *「(30号土坑も)遺構の下限に近い時期として、9世紀末から10世紀初頭の年代が想定される」
 
 この発表をもとに、まず思い出したのは、以前、尾野善裕氏の講演で知った「造瓷器生」のことだった。
 つまり、「凡人部豊子丸」も、尾張国山田郡人”・”造瓷器生”・”雑生”としての”三家人部乙麻呂”と同じような立場の人ではなかったか?と連想したのだ。
(ただ、尾野氏の講演では、『日本後記』の 弘仁六(815)年正月丁丑条「造瓷器生 尾張国山田郡人 三家人部乙麻呂等三人 伝習成業。准雑生 聴出身。」の「造瓷器」 について、”灰釉陶器”ではなく、”緑釉陶器”として解釈されている。また、今回の灰釉陶器の年代は9世紀後半に相当し、時期も異なるけれど。)
 また、今回の猿投産灰釉陶器に刻書された「凡人部豊子丸」という人物が、”尾張国山田郡人”であるかどうかも分からないのだ。
 その一方で、奈良時代に遡る人名として、「凡人部万呂 年廿 尾張国山田郡石作郷戸主 日下部建安万呂 戸口」(『正倉院文書』 天平勝宝2年4月7日 仕丁送文)の例があることが分かった。

 この僅かな一例をもとに、仮に、尾張国山田郡石作郷を現在の愛知県長久手市岩作一帯…瀬戸窯の南端部…と想定すると、猿投窯黒笹地区の北北西9~10kmほどの位置にあたる。また、猿投窯岩崎地区とも接する位置にある。
(ここから、「凡人部」が、尾張国山田郡域内に見られる名前、と言えるわけではないのだけれど…。)

 これらの連想や断片的な情報…都合の良い情報…から、さらに想像をふくらませる。そして、いつものように一つの妄想に至る。
 それは、「凡人部豊子丸」という名の人物とは、9世紀代の相模国府域における灰釉陶器の流通と関わっていた人物ではないか?というものだ。
 そして、そんな妄想では、調査担当者の方が指摘した肝心な謎は全く説明できないということにも思い至る。

 なぜ灰釉陶器を焼成する前にその名を刻んだのか、それも三つ並べて?という謎。
 なぜ、そのような灰釉陶器を相模国府域に持ち込んだのか?という謎。
 なぜ、その灰釉陶器は六ノ遺跡で廃棄されたのか?という謎。
 逆にたどれば、念入りに個人名を刻んだ商品(猿投産灰釉陶器)を相模国府に持ち込む必要があったのだし、その役目(?)を終えたのち、その場所で廃棄された、と考えることもできる…そんなふうにも思えてくる。今のところ…。

六ノ域遺跡第17地点出土の刻書灰釉陶器
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