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私の第三十四夜をつづります。

緑釉陶器…雑感(3)

~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~ 〔2〕「正月歯固」そして「乞巧奠」
 
*「正月歯固」*
 尾野氏の講演のなかで、「歯固め」という耳慣れない言葉が印象に残った。その儀式に緑釉陶器が使われたようなのだ。これまで、緑釉陶器の具体的な用途について何の知識もなく、また「歯固め」の儀式そのものを知らなかった。講演後、「歯固め」について調べるなかで、「若葉の器」(http://www.hakusado.com)という論考を読むことができた。
 
「若葉の器」の論考では、『江家次第』・『江次第鈔』という史料をもとに、「歯固の行事に用いる具は、青瓷の碗・蓋・尻居の皿が組となったものであった。」と、具体的な使用例が示されていた。私は、「みどり色の器展」で初めて眼にした真田・北金目遺跡群出土の“猿投窯の蓋”について、その使用例の手がかりを見つけたような気がした。
「若葉の器」の論考はさらに続く。
「ここで留意したいのは、歯固の具は蓋を組としていることである。平安京で出土する緑釉陶器を見る限り、飲具そのものや埦や尻居(=段皿)に該当する形態は普通に見かけるが、蓋の形態はほとんど初期、下っても九世紀半ばまでに限られて、その後はほとんど見かけない。歯固は平安京で長い間、存続した行事である。歯固の具に蓋が必ず組み合うものならば、初期からの伝世品を除いては、尾張の製品ではあり得ないことになる。(中略)尾張青瓷の生産が途絶えた十一世紀以降でも産地からの供給が想定される尾張青瓷百五物は、備蓄してあった古物の拠出というよりも、青瓷の代替として青磁を調達して代輸した可能性を考えるべきである。」(「若葉の器」〔http://www.hakusado.com〕から引用)
 
真田・北金目遺跡群出土の“猿投窯の蓋”の用途について期待を持ったが、仮に、それが「歯固め」の儀式用に生産された“緑釉陶器蓋”であったとして、相模国で実際に「歯固め」の儀式で使われた証明にはならないのだ。(正月の「歯固めのような」お祝い事に使われた可能性、ぐらいは許されるのかもしれないが。)
そもそも、“緑釉陶器の蓋”の出土が平安京においても限られるなら、「正月歯固」の儀式形式の普遍性、普及度も揺らぐように感じた。では、あの真田・北金目遺跡群の“猿投窯の蓋”は何のために国府域から離れた台地にもたらされたのだろうか。
(素人の思いつきだが)「みどり色の器展」で、その“猿投窯の蓋”は“つまみ”のない大きな皿状に復元されていた(平安京出土の蓋が“つまみ”を持つかどうか不明だ)。もし、このような形の“緑釉陶器蓋”を何かしらの儀式の供え物の器として使うとすれば、そのまま“大皿”として使うほうが自然かもしれない…そんなふうに想像した。
 
*「乞巧奠」*
「若葉の器」の論考では、緑釉陶器の用途例として、さらに「乞巧奠」(『江家次第』)や「諒闇明け(『吏部王記』)などの場も紹介されている。
では、「みどり色の器展」で感じた林B遺跡出土の緑釉陶器群の用途の場として、「乞巧奠」の可能性はあるだろうか。ここでも「正月歯固」と同様に、「乞巧奠」が9世紀において11世紀と同様の形で行われていたのかどうか?という問題、また都城の貴族の行事が、そのままの形で、かつ同時性をもって東国まで持ち込まれていたのかどうか?という大きな壁にぶつかる。
『日本後記』においても、嵯峨天皇の「七月癸亥、幸神泉苑観相撲、命文人賦七夕詩」(弘仁三年七月七日)に代表されるような記事がほとんどで、それ以降の七月七日の記事を見渡しても、当時の「乞巧奠」の実際をうかがわせるようなものは見当たらなかった。
結局、現段階では、9世紀の平塚市内出土の緑釉陶器について、それらが使われた具体的な儀式は不明、とするしかないようだ。すなわち、平塚市内で出土する緑釉陶器の埦や香炉などは、都城の貴族社会で催された(完成途上の形式による?)行事・儀式・宴を模したような場面で使われていたのでは…という推測にとどまる。
それにしても、11世紀後半の『江家次第』に記された「乞巧奠」では、朱塗りの高机の上に、果物や果実、豆や野菜、海産物などを盛った“尾張青瓷”(平安後期では青磁?)を並べ、酒坏や香炉、朱塗りの華盤などが置かれたようだ。「乞巧奠」の青瓷の“若葉色”は、より一層、朱漆りの机に映えたことだろう。
 
イメージ 19年前に見学した大宮八幡宮(東京都杉並区)の乞功奠の紙焼き写真を取り出してみた。香炉だけが「若葉色」だ。“熟瓜”が、写真のように“西瓜”であったならば、器の大きさも径30cmは必要だろう(真田・北金目遺跡群出土の“猿投窯の蓋”の大きさで間に合いそうだ。ただし、器と供え物は同系色ではないほうが映えると思う)。また、林B遺跡出土の緑釉陶器の大きさでは、豆類を盛るのがやっとの大きさだ(径18㎝ほどの小ぶりな埦が多い)。何に使われたのか、やはり気になる。