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私の第三十四夜をつづります。

緑釉陶器…雑感(2)

~尾野善裕氏の講演「平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模にもたらされたのか~」を聴いて~  1弘仁三年・六年の尾張国司“滋野家訳”のこと
 
『湘南新道関連遺跡Ⅱ』の報告書で、初めて尾野氏の論考を読んでから、すでに5年が過ぎた。そして、今回の講演を聴いたことで、また新たな刺激を受けた。興味深い内容の講演のなかで、とくに印象に残ったのは、『日本後記』の弘仁六年〔815〕正月五日条の記事の紹介だった。尾野氏は、原文の「造瓷器生」の解釈について、「伝習」の語と、「弘仁」という時期から、その「瓷器」は「緑釉陶器生産としか考えられない」と特定されているのだ。
さっそく、尾野氏が講演のなかで推薦された『日本後記』(全現代語訳 森田俤、講談社学術文庫 2006年)を手に取ってみた。そして、二点ほどの事実を新しく知ることができた。
私はこれまで、9世紀代の平塚市における緑釉陶器出土に係ると思われる人的ネットワークとして、尾張国司の側では、滋野家訳や橘氏人、源弘・源定などが想定できるのではないかと考えてきた。そこで、尾野氏が指摘された“尾張国における緑釉陶器の生産開始時期”という視点で、改めて弘仁六年前後の尾張国司を確認し、『日本後記』とも照らし合わせてみた。
すると、滋野家訳が弘仁六年七月十三日に尾張守に任じられた背景が初めて分かった。そもそも弘仁六年七月十三日は、橘嘉智子嵯峨天皇の皇后に定められた日で、滋野家訳の位階が外従五位下から従五位下となって尾張国司に任じられたことも、その立后に伴うものらしい、ということが読み取れたのだ。
 
もう一点、新たに確認したことは、その滋野家訳が、弘仁六年から溯って3年前の弘仁三年(812)正月十二日に、尾張介に任命されていたことだ。
(その弘仁三年という年代について、「造瓷器生」が「伝習」を開始した時期にあたるのでは?と強引に読み取ることは可能だろうか?)
 そして、仮に弘仁三年から六年にかけての時期に、嵯峨天皇尾張国での緑釉陶器生産開始を意図したのだとすれば、その背景として、嵯峨天皇の后や皇子女が多数であったこともあげられるのではないかと思う。再び『日本後記』の記事に頼ると、大同四年(809)四月に即位した嵯峨天皇は、同年六月に橘嘉智子を夫人とし、弘仁五年五月には皇子女に(源)朝臣の姓を与えている。また弘仁年間には、南池院〔淳和院〕や冷然院も成立していたようだ。このような嵯峨天皇を取り巻く状況が、尾張国の「造瓷器生」「伝習成業」の記事へとつながっていったと想像することも可能だろう。
 
(尾野氏が『湘南新道関連遺跡Ⅱ』のなかで、“尾張における緑釉陶器生産”について、「嵯峨天皇の身辺を彩る奢侈品を作るべくして始められたものであった」と指摘されたことを、私は今ようやく『日本後記』をもとに追いかけていることになる。ただし、尾野氏の「嵯峨朝の尾張における緑釉陶器生産とその背景‐平安時代初期の喫茶文化との関わりを通して‐」『古代文化』第54巻第11号については、いまだ読む機会を得ないままだ。嵯峨天皇の身辺を彩った緑釉陶器は喫茶文化に係るもの、として想定された論考なのだろうか、と気になっている。)
 
四之宮下ノ郷廃寺出土の埦(京都産)…掌に収まるほど小ぶりなのに、不釣り合いなほど分厚い高台。菊花文も印象的だ。用途は何だろう(当時の“喫茶文化”のなかでは、どのようなお茶碗が使われていたのだろうか?)
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