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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート探訪⑨:”なら へまかりける時に、をとこ山にて”

 今回の奈良の短い旅は、歌人相模の初瀬参詣推定ルート(河内国~「龍田道」経由)の一部を、実際に歩いて確かめてみたい、という気持ちが強かった。
 そして、今回歩いたわずかな範囲に限って言えば、その想定と大きく食い違う材料は見えてこなかった。また歌人相模は『更級日記』の作者・菅原孝標女と同じ道筋はたどらなかった、という思いも強くなった。
 このように、想定を見直す材料が見つからないのは、たぶん、無知と思い込みが偏狭につながっているから…と思う。つまり、自分の思い込みを強くする材料しか眼に入らない(探していない)のだと思う。
 旅から帰ってからも、思い込みの眼が見たのは次の詞書だった。
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   『古今和歌集』 巻第五 秋歌上 (『新編国歌大観』)

   僧正遍昭がもとに ならへまかりける時に、をとこやまにて をみなへしを見てよめる
                                                  布留今道
227 をみなへし うしと見つつぞ ゆきすぐる をとこ山にし たてりと思へば 
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【註:布留今道について】
大和国石上神宮社家の出身で、良峯宗貞(遍昭)の縁故によって上京し、初めその従者であったと思われる。」(『平安時代史事典』 角川書店 1994年)

 ”布留今道”は9世紀後半、中務省内蔵寮の職を経て、従五位下(882年)となり、下野介(892年)・三河介(898年)を務めた人という。
 そして、”布留今道”も”僧正遍昭”も、天理市一帯にゆかりのある人なので、京と「なら」との行き来には、旅慣れた道筋があったことと思う。
 では、「なら」(”奈良”でよいのか、”楢”の可能性もあるのかは不明)の”僧正遍昭”のもとに向かうのに、なぜ「男山(石清水八幡宮)」を通るのだろう、と引っ掛かった。
 そして、”布留今道”の道筋を、次のように想像してみた。

① 京 ⇒ 男山(男山を経る理由があった) ⇒ 木津川沿いに南下 ⇒ 「奈良」または「楢」
② 京 ⇒ 男山 ⇒ 河内国経由で南下(平安時代南海道/東高野街道) ⇒ 龍田道 ⇒ 「楢」

 このうち、②の道筋は、歌人相模の初瀬参詣推定ルート(往路)と重なる。
 ただ、両者が②のルートを選んだとしても、その理由は分からない。
 しかも、平安時代と言っても、9世紀後半と11世紀前半とでは、時間が大きく隔たっている。
 歌人相模と同時代の貴族女性の例では、宇治川・奈良坂を越える道筋をたどるほうが自然なのだし…とも思う。
 こうして、右往左往してきたけれど、②の道筋(京都市天理市)が、平安時代に使われていたのかどうか、確かめることができない。やはり、歌人相模の初瀬参詣推定ルートは、依然として妄想の域にとどまっている。