enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「賀陽院水閣歌合」②

~心象風景:『相模集』242の歌から ~
 
「賀陽院水閣歌合」で歌人相模は“五月雨”の歌を詠んだ。
 その歌はなぜ、歌合に列席していた人々をどよめかせたのだろうか。
 雨の季節、歌人相模はどのような歌の世界を作っているのか。
雨の季節を詠みこんだ相模の歌の心象風景について考えてみたいと思った。
________________________________________
 『相模集全釈』(風間書房 1991)より引用

中夏
242 引きながら うきのあやめと 思ふかな かけたる宿の つましわかねば

和歌を目の前にして、素養のない私ができることは妄想のみだ。
研究者の緻密な通釈をもとに歌詞の重層的な意味合いを知ると、その歌の心象風景の扉がわずかに開く。その曖昧な心象風景のなかに自分が入り込み、いつのまにか作者と自分の視線が重なっているように感じる。そこから生まれた“共感のようなもの”は、思い込みや勘違いから導かれたものに過ぎないかもしれないのだけれど、心が動かされる。歌の世界には時間や空間の隔たりがない…いや現在の世界より自分と直結しているように感じることさえある。
一方で、歌人相模の歌については当初、自然には入り込めない世界、“共感のようなもの”が生じにくい世界…どこかで、そのように感じていたところがあった。
そのうえで、242の歌を改めて読み直すと、相模の心の嘆きが素直に伝わってくるように感じた。夫の帰りが途絶えがちな空しい住まいの気配が漂ってくるように感じた。『沼のあやめ草を引きながら、つらつらと思いが深まってゆく…宿の軒に菖蒲を掛けてみても虚しい…夫の帰らない家に…』 夫に忘れられた女性のつぶやきが聞こえてくるような気がする。
一方、“11世紀前半の相模国府”について考えるとき、相模が言う「宿」とは何か、という疑問がわく。大江公資と相模は、国司館と同じ敷地内に同居していたのか。それとも、国司館とは離れた地に、相模の「宿」があったのか。
これまで、確かな根拠のないままに、相模が夫の住む公邸とは別の場所に暮らしていたように想像してきた。今もそれは変わっていない。当時の大江公資がたとえ公務や遊びに多忙な毎日だったとしても、妻と同居という形であれば、多少なりとも相模の存在を気にかけないわけにはいかなかったと思うからだ。
しかし、『相模集』から、大江公資の相模への気遣い、優しさはうかがえない(相模が故意に抜き取って編集しているのかもしれないが)。
その『相模集』から浮かび上がってくる大江公資のイメージは、“妻から心が離れた今、できれば夫としての面倒なことからは逃れていたい男”という、一つの普遍的な男性像だ。
大江公資は、自分の行動が把握されにくい場所に相模を住まわせていたのでは? 妻を気にかける機会が間遠になっても、言い訳がしやすい距離に相模を置いていたのでは? そのように現代の私は勘ぐっている。具体的な根拠はないのだけれど。