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私の第三十四夜をつづります。

ふたたび『賀茂保憲女集』から

 2年ほど前の2013年9月、『賀茂保憲女集』という歌集があることを初めて知った。まず、作者が、歌人相模の母の従姉妹であることに興味をもった。乏しい読解力でわずかな数の歌を拾い読みした。彼女の歌集に風変わりな雰囲気、怪しい気配を感じた。その時、気になって書きとめたのが次の二首だった。
 「 憂き世には 花ともがなや  とどまらで 我が身を風に まかせ果つべき 」 
 「 年ごとに 人はやらへど 目に見えぬ 心の鬼は 行く方もなし 」

 京都の旅から帰ってから、もうすぐ一か月になる。
 梅雨入りもした。そうか、“五月雨”の季節なのだ、と思った。
 
「594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ 思ふ」 
 
 歌人相模の“五月雨”の歌(594)が、賀陽院水閣歌合に居合わせた人々に動揺を与えたのはなぜだろう…。図書館で『新編国歌大観』を調べてみようと思った。学習室の机に勅撰集、私撰集、私家集を並べる。
 索引で、“さみだれ”・“みつ”・“まこも”の歌語を含む歌を探してみる。
 相模の歌(594)より以前に、すでに“五月雨”とともに“美豆の御牧(の真菰草)”を歌っている歌人がいるのかどうか、知りたかったのだ。

 そのなかで、賀茂保憲女の“五月雨”の歌(53)に出会った。
 さらに、“美豆の御牧”の景観と重なるイメージの歌(209)もあった。
桂川宇治川・木津川が“美豆の御牧”とされる地域久御山町北西部~伏見区淀美豆町〕周辺で合流し、淀川となることも確かめた。それは遇然にも、今回の京都の旅で男山の頂上から眺めた地域だった。)
 それらの歌を『新編国歌大観』から引用させていただく。
 
53   かるこもに たままきすぐる さみだれを せちにも 人に おもふべきかな
 
 ひねもすに  あめふりくらして  さくらのはな やうやうほころびて  とりのこゑとあり   やなぎの いと みどりみだれて  にはのおもて あをやぎなせり  にはたづみ きえかえる  ゐると見るほどに  きゆぬる  みづほにも おとらぬものは 我が身なりけり とみゆるにて

209   あめのあしも かずこそまされ よどがはの こものみぎはも いかがなるらん

 同じ“雨”・“菰”を詠み込みながら、相模の歌(594)には地平線が広がっているように感じる。安定したアングルというのだろうか。叙景的というのだろうか。
 一方、賀茂保憲女の歌(209)の詞書では、視線がズームしているのは自身の内面であって、その眼も心も濡れそぼっているように感じる。そのアングルが、歌のなかで急に“よどがは”の景観へと切り替わっているようだ(読解力に自信がないので、現時点の解釈では…)。
 そして、どちらの歌人も、通り一遍の雨の歌を詠んではいない…やはり、遊びの歌ではないのだ。そのように思った(現時点では…)。