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私の第三十四夜をつづります。

「下総国府・葛飾郡衙」に会いに行く③

 

素晴らしいロケーションの会場は満席だった。
小笠原好彦氏による文献学に基づいた講演「古代の下総と葛飾郡衙」が始まった。

私にとっては久しぶりの文献資料のレジメだった。
眼を通しながら、下総国が11郡を擁する大国であること相模国は8郡の上国)などをおさらいしてゆく。
また、畿内などの事例をまじえたお話を聴き、9世紀初めの「四度使」の雑掌数の具体的な数や諸国のさまざまな「調」の品々を読むことで、律令制国府郡衙で働く人々の姿をイメージしてゆく。
(つい目の前の遺構・遺物に目を奪われてしまうけれど、それらの性格を見定めるためには、このような文献上の広範な知識が必要なのだった…。)

その講演のなかで一つ気になったのが、須和田遺跡出土の「右京」墨書土器についての指摘が、私がこれまで見聞してきた捉え方と異なっていたことだった。
つまり、「右京」墨書土器については、当時の人々下総国府・葛飾郡衙の行政に携わる人々?…が、国府台の一帯を”右京”と見なしていたことを推察できる出土資料である…研究者の間では、このような評価が定着しているものと受けとめてきたのだった。

これに対し、小笠原氏はこうした捉え方を卓抜なものとしつつ、地方官衙での出土例が稀で遺称地の事例も見られないことや、本資料が(都から)持ち込まれた可能性も含めて、疑問を呈された(と私は理解した)

帰宅後、考古博物館の講座「国府研究の最前線」(2005年)の資料を改めて読み直すと、本資料については、”8c後半”・”胎土は常陸”、”栄原永遠男氏による「都の土器」説”といったメモ(聴講した私が走り書きしたもの)が残っていた。

私は、小笠原氏の見解(懸念?)を理解する一方で、当時の人々の「京」の認識は、後世の学術的な定義とは別のところにあったのではないか?…と思う。
つまり、地方の国府郡衙の造営に際しては、さまざまな制約があるなかでも都城のプランを理想モデルとしたはずであり…現実的には、整然とした条坊制もなく、都城に比べて貧弱で見劣りのする景観を呈したとしても…、当地の人々の眼には、村落とは異質な特別な都市的空間として映り、その国府所在地のプライドのような意識が「右京」という墨書に反映されたと想像するのだ。
(同様に、もし平塚の相模国府域東部の遺跡から「左京」墨書土器が出土したならば、やはり、相模国府域東部が人々に「左京」と認識されていた可能性を想定すると思う。
さらに、その器が仮に畿内産であった場合も、相模国府所在地として「京」の認識が存在した可能性を否定する材料にはならないように思う。
しかし、この場合も、東西に走る第3・4砂丘列に載って展開する国府域について、その東部を「左京」、国府域西部を「右京」と積極的にみなすことには無理があり、あくまでも”当時の人々の認識としての「左京」”にとどまるのだろうと思う…つい下総国府の事例から相模国府にまで妄想が広がってしまった…)

 

「京」という都市認識については、「都市と境界」鈴木喬 『万葉古代学研究年報』第20号 2022年)の次の記述も参考になった。

…なお、地方官衙において「市」と記された土器だけでなく、「京」と記した墨書土器が存在する。
  「右京」 須和田遺跡出土墨書土器 奈良~平安時代
  「京迎」 秋田城跡出土墨書土器  奈良~平安時代
これらの「京」は地方官衙をさすとされ、地方における「都市」の存在を示す傍証となるものである。国庁については「宮」と表現されたようで越中国の国庁に出仕する尾張少咋の姿を「宮出後姿」(18・4108)と「宮出」と表現する。…」
(ここまで読んで、ふと、平塚市・六ノ域遺跡(相模国府の中枢域)出土の「宮」箆書土器や、茅ケ崎市・居村遺跡出土の複数の「市」墨書土器のことを思い出した。
六ノ域遺跡出土の「宮」箆書土器は、”灰釉陶器転用硯〈朱墨〉で箆書土器”というかなり特殊なもので、9c後半の六ノ域遺跡の性格をうかがわせるような出土資料なのだった。
それにしても、越中守・大伴家持…家持は相模国司でもあった…の歌のなかで、「宮」が「国庁」を表現する言葉として使われていたとは…再び妄想が始まる。)

 

小笠原氏のパワフルな講演に続いては、勝田雄大氏による「市川市国府台遺跡 第192-3地点 発掘調査の成果」の淡々とした発表があった。
発表後、会場から次々と質問が出て、「国庁発見!」へ向けての市川市民の方々の期待の大きさを感じた。

「国庁はどこに?」
「貴重な遺跡はぜひ保存を!」

こうして、「下総国府・葛飾郡衙」の地に暮らす人々に出会い、その”熱さ”に満たされた気持ちで、相模国・平塚の地へと戻った。

 

日展示されていた資料(クリックすると拡大されます