enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

旧国府別宮 の検索結果:

『相模武士団』(関 幸彦編 吉川弘文館 2017年)のなかの一節

……藤原親弘か?〕 「旧国府別宮」(石清水八幡宮領)が平塚市内に存在 (1158年以前に相模国府が大磯に移遷したことを示す) 1158(保元3)年 この頃、故藤原親忠の八条坊門宅が美福門院の御所となる 1159(平治元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕 糟屋荘、安楽寿院に寄進(藤原親弘の仲介) 1160(永暦元)年 源義朝、殺害される 美福門院、白河押小路殿で崩御 (鳥羽離宮で火葬。遺言により、高野山に埋葬) 1163(長寛元)年 近衛天皇御遺骨、…

あらためて ”平塚八幡宮と八幡” について

…水八幡宮の話題から「旧国府別宮」の言葉が出てきた時、『まさか…』と驚いた。 これまで私の妄想の中にあった相模国府と八幡宮の位置関係について、専門家の立場から、次のような言及があったのだ(なにぶん、私が理解し記憶した内容なので、正確性を欠いているかもしれない)。 文献上に12世紀時点の「旧国府別宮」が確認されていることからも、平塚の八幡宮は相模国府所在地近辺に所在した可能性があり、その原位置から、いずれかの時点で現位置に移った可能性があること、その移転のきっかけとしては”相模川…

相模国府域を通る古代の道

…の時点での「​相模国旧国府別宮」(『石清水八幡宮文書』)や、12c末の時点での「八幡宮」(『吾妻鑑』)、15c末の時点での「八幡といへる里」(『廻国雑記』)の所在地についても、同じような問題が生じる。すなわち、「現・八幡宮はいつから現位置に存在するようになったのか?」という問題が、私の妄想の中で問われ続けているのだ。そもそも、『延喜式』の古代東海道ルートや近世の東海道ルートが、11c代の平塚の地で、どのように機能していたのか・していなかったのか、また、『延喜式』の古代東海道ル…

鳥羽離宮跡(2)安楽寿院と相模国

……藤原親弘か?〕 「旧国府別宮」(石清水八幡宮領)が平塚市内に存在(1158年以前に 相模国府が大磯に移遷したことを示す) 1158(保元3)年 この頃、故藤原親忠の八条坊門宅が美福門院の御所となる ◆1159(平治元)年-相模国大住郡〔当時の相模国司は藤原(名欠)…藤原親弘か?〕 糟屋荘、安楽寿院に寄進(藤原親弘の仲介) 1160(永暦元)年 源義朝、殺害される 美福門院、白河押小路殿で崩御(鳥羽離宮で火葬。遺言により、高野 山に埋葬) 1163(長寛元)年 近衛天皇御遺骨…

石清水八幡宮(3)

…は、12世紀中葉の「旧国府別宮」の実態などとも係ってくる問題であるように思う。 放生池 かつて極楽寺は池に面していたのだろうか。失われたものの存在感になぜ心惹かれるのだろう。 高良(こうら)神社 仁和寺の老僧が参詣した「極楽寺、高良」とは、当時、どのような姿だったのか。また失われたものに思いが飛ぶ。 七曲がり 大山や最乗寺の参詣路に比べ、なだらかな阪路。仁和寺の老僧は惜しいことをしたと思う。 「旧跡 かげきよ」脇の水鉢 水に映る林を覗き込もうとして、ふと、子どもの頃に見た『怪…

石清水八幡宮(1)

…)の官宣旨「相模国 旧国府別宮」の記事について触れられていたのだ。相模国府が置かれていた地に石清水八幡宮領があったことを知った時点から、相模国府遷移の時代にあたる12世紀のあり方にも関心を持つようになった。また、隣の茅ヶ崎市で発掘された「放生」木簡・「貞観」木簡から、石清水八幡宮の放生会のあり方にも興味を持った。なお、歌人相模について調べる中で、かつて、次のようなことを妄想していた。 【enonaiehon 2012年10月21日「歌人相模の時代から中世へ-静範と聖範」から抜…

相模国庁域から八幡宮へ

…たせなかった。梅雨の晴れ間の今日、改めて平塚八幡宮を訪れた。 石清水八幡宮の所領であった「旧国府別宮」、頼朝が神馬を奉納した「八幡宮」、『廻国雑記』の道興が額づいた「八幡といへる里」の神社にはいつ行き着けるだろうか。 相模国庁域を東西に横断する湘南新道 道路の先は相模川を渡る湘南銀河大橋。 国府域東端を走る八幡・四之宮線 右手の家並みは上高間の崖線上に並んでいる。この道は数百m先で相模国庁域を縦断する。相模国庁域は十字路の真下なのだ。 現在の平塚八幡宮(平塚新宿)

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

…(後略)」 私が、「旧国府別宮」の「八幡宮」は(現在の「平塚新宿」の地ではなく)「八幡」の地にあったのでは、と憶測する時期は、中世期のいずれかの時期までだ。とすれば、この15世紀末に道興が詠んた「八幡」の神社は、相模国府域東端に位置する「八幡」の地にあった可能性がある。 しかし、私の乏しい読解力では、歌の後半で”南(恵み?)の山”が詠まれていることが良く分からない。もし実景であるとすれば、神社の南に山があったのだろうか。現在の「八幡」、なかでも八幡別当坊の成事智院があったとさ…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1)

…2世紀半ばの相模国「旧国府別宮」について、その「(石清水八幡宮の所領)別宮」が成立したのはいつか。その八幡宮の勧請に(前身的な八幡宮と仮定)、11世紀代の相模国府や相模国司(源頼義・義家など)が係わるのか。 (追記:その後、源頼信、源義家、源為義の相模国司任官について、不明な点が多いことが分かった。なので、もし、八幡宮勧請に係る可能性がわずかにせよ残るのは、源頼義に絞られることになりそうだ、) そして、相模国府内の八幡宮成立を11世紀後半までさかのぼり、その位置を「八幡(やわ…

相模国府と「八幡宮」

…、*1156年には「旧国府別宮」と位置づけられていること、*1192年には 「一の宮(佐河大明神) 二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神) 四の宮(前祖大明神) 」に次ぐ”五の宮”の扱いを受けていたこと、*1556年の戦火で焼失したこと、*その後(恐らくは、1609年の八幡別当坊の移転にともなって)、平塚新宿すなわち現在位置(浅間町)に移転・再建されたこと、などが想定できるのではないだろうか。そして、その旧位置は、11世紀代の国府・国衙の位置とも密接なつながりがあると妄想し…

相模国府所在地の空白(2)

…官宣旨にある「相模国旧国府別宮」と解する説があり、相模国府の余綾郡移転の時期を探る鍵の一つとなっている。) 一方、『吾妻鏡』治承4年(1180)10月の「今夜相模の国府六所宮に至り給ふ 此処に於て当国早河庄を箱根権現に寄せ奉らる」の記事、同じく『吾妻鏡』建久3年(1192)8月の「惣社柳田」の記事などから、相模総社は1180年頃には成立していた、とされている(『神奈川民俗芸能史』 永田衡吉 神奈川県教育委員会)。 東国支配の拠点を鎌倉に据えた源頼義。鎌倉市の鶴岡若宮(1063…