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私の第三十四夜をつづります。

相模国府所在地の空白(2)

 2012.4.21 【相模国庁所在地の空白を埋めるために】
 
 机上の妄想を続けている。
 11世紀前半、大江公資が歌人相模と別れ、妻(大江広経の母)と共に次の任務地である遠江国に下向し、質侶牧を経営していた頃、新たな相模国司として、相模国の政治的実権を握ったのは源頼義であった。
 そして、頼義が父・源頼信と共に平忠常の乱(1028~31年)を平定したのを契機として、鎌倉に東国の拠点を設けた時点から、相模国府の求心的な政権の座も鎌倉に移っていたのではないだろうか。一つの仮定として、1030年代以降、国司の”実質的な”館はすでに平塚の地には無く、鎌倉にあったという想定も可能だと思う。
 
【註】 2012年4月の時点では、相模国司としての源頼義(1036年)・源義家(1063年以降?)・藤原棟綱(1086年)・源為義(1109年以降?~1136年以前?)、またはその後の源義朝の足跡などから、相模国内での11世紀前半~12世紀前半で既に”鎌倉”の政治的求心力というものがあったように夢想していた。
(追記:その後、源頼信源義家源為義相模国司任官については、不明なことが多いことが分かった。)
しかし、2012年秋の時点でこの夢想が大きく後退している。夏以降、摂関政治院政などについて書かれた本を読み始めて、自分が歴史に余りにも無知であり過ぎると知ったからだ。相模国府が大住郡から余綾郡に遷移するに至るまでの、中央政権や東国などの動きを知ることなく、当時の鎌倉の位置づけなど分かるわけもないのだ。ただ、無知な者として、その時々で考えたことを書き留めていくことは続けていこうと思う。相模国府はなぜ遷移したのか・・・それが自分なりに説明できるようになる日は来るのだろうか。
 
 更に、頼義の館や活動拠点は八幡宮の立地とも緊密な関係にあるのではないか、と考えてみる(苦し紛れに)。平塚での八幡宮のあり方は、相模国司となった源頼義の活動と大きく係わるのではないかと。
 
(現在の平塚八幡宮は…その現位置がどの時点まで遡るかは別として…国府域から2kmほど南、国府域と海岸との中間に位置するが、『石清水文書』保元3年〔1158〕12月の官宣旨にある「相模国国府別宮」と解する説があり、相模国府の余綾郡移転の時期を探る鍵の一つとなっている。)
 
 一方、『吾妻鏡』治承4年(1180)10月の「今夜相模の国府六所宮に至り給ふ 此処に於て当国早河庄を箱根権現に寄せ奉らる」の記事、同じく『吾妻鏡』建久3年(1192)8月の「惣社柳田」の記事などから、相模総社は1180年頃には成立していた、とされている(『神奈川民俗芸能史』 永田衡吉 神奈川県教育委員会)。
 東国支配の拠点を鎌倉に据えた源頼義鎌倉市の鶴岡若宮(1063年)成立の流れ、ひいては後の大磯町の「六所宮」・「惣社」(1180年頃には成立か)につながる流れの中に、平塚における八幡宮(旧国府別宮)も位置しているのではないだろうか。
 
(”四之宮”と”六所宮”のはざまで現れる八幡宮の当時の地理的位置については不明であり、「八幡宮付近・浅間町・明石町一帯」とする説と「四之宮・東八幡・西八幡」とする説があるようだ〔「相模国府の所在について」木下良/『人文研究』 59神奈川大学人文学会〕。
 また、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月には「八幡宮」の社名と共に、「五大寺(八幡、大會の御堂と号す)」があり、この地名”八幡”についても、”八幡宮”に係わるのか、そして現在の四之宮に残る”大会御堂〈北向観音〉”とどのように係わるのか、興味深い。)
 
 恐らく、源頼義国司とする時代、在庁官人の「庁」の所在を探る鍵も、こうした文献や諸研究の中に隠されているのだろう。そして9世紀後半を最盛期とする国府域には機能していたはずの”国庁”・”国司館”なるものも、11世紀前半に焼失した大江公資の「たち」を最後として役割を終え、相模国府の舞台は、新しい時代の流れに乗った人々のうごめきの中に飲み込まれていったのだろう。
 その経緯を考古学的な調査で追跡することは、ますますむずかしいことなのかもしれない。それでもあきらめずに、とりとめない妄想上の結論を留保しつつ、”歌人相模の道”を辿ろうと思う。