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私の第三十四夜をつづります。

相模国庁所在地の空白(1)

2012.4.20 【相模国庁所在地の空白】
 最近の考古学的成果から、相模国庁は8世紀中葉には平塚市四之宮の地に成立し、(8世紀後葉~)9世紀初頭に終焉を迎えたとされる。そして文献学上の相模国府は、10世紀前半は大住郡に所在し、12世紀半ばには余綾郡に遷っていたとされる。9世紀以降の相模国庁所在地は、ほとんど不明のままだ。
 11世紀前半の相模国司であり、歌人相模の夫である大江公資の政治的拠点は平塚なのか。”歌人相模の道”をさまよい始めたのも、この国庁所在地の空白期についての手がかりを得るためだった。
 ここで、改めて”相模国府域(平塚)”の集落の消長(7世紀~11世紀)を省みると、竪穴建物と掘立柱建物の数は、9世紀後半をピークに、10世紀以降はともに激減するようだ。11世紀に入ると、国府造営前の7世紀代の集落規模に復したかのようで、12世紀代についてはまさに空白期に見える。
 仮に、国府域の衰退と同時に、早くも10世紀代に国府が余綾郡に移遷したならば、余綾国府推定地である大磯町において、その動きに呼応する考古学的成果が上がるはずだ。しかし『大磯町史 10 別編 考古』(第9章)を読む限り、10世紀以降に特段の画期は見られないようで、国府推定地も移遷時期も、現時点では明らかになっていない。
 今の段階では、相模国庁所在地について、8世紀中葉~9世紀初頭は平塚市四之宮、9世紀後半までは恐らく平塚の国府域内か、そして10世紀以降は国府の構造がそれまでと大きく変わった可能性(所在地は不明)、12世紀半ばには余綾郡に移遷(所在地は不明)、と理解するにとどまる。
 そして、相変わらず、11世紀前半の相模国司大江公資の拠点も不明のままだ。ただ、机上で相模国司の変遷を(安易に)眺める限り、「天慶2年(939)将門の任命による平将文」、「11世紀初めの源頼信」、「長元9年(1036)~永承5年(1050)以前の源頼義」、「康平6年(1063)以降の源義家」、「天仁2年(1109)以降~保延2年(1136)以前の源為義」(年代は『大磯町史 1 資料編 古代・中世・近世(1)』による)といった国司の名前は、相模国府域の10~11世紀の集落の衰退と何かしらの係わりがありそうに思える。
(追記:その後、源頼信源義家源為義相模国司任官について、不明な点が多いことが分かった。)
 
 〔付記〕
 平塚の相模国府中枢域(国庁の南部~南西部)の遺跡群から砂丘列沿いに1kmほど西に離れて、構之内遺跡がある。国府域の中心部を東西に走る古代東海道(前期:8世紀第4四半期まで。幅は最大9.5m。後期:9世紀~11世紀初めまで。幅は最大6.2m。)を検出した、国府域西端の中心的遺跡だ。 
 この構之内遺跡は、古代東海道に南端を区画されるような形で、竪穴建物・掘立柱建物が密集し、有数の遺物(緑釉陶器・人面墨書土器・「春」墨書土器・「春」朱墨書灰釉陶器・須恵器円面硯・皇朝十二銭・銅鏡・銅印・焼印・鉄製鋤先・銅銙・石銙・石製紡錘車など)を出土するとされる。
 古代東海道を挟んだ向かいには乾田型の水田址遺構、また古代東海道と更に並行する流路(”谷川”と呼ばれる砂丘間凹地)を挟んだ向かいには、畑地としての生産空間が確認され、「公領としての性格を持つ可能性」(『平塚市史 別編 考古(2)』)も指摘されている。
 また、「本地区は官衙的な性格を持った遺跡と理解される。しかし、これらの遺構・遺物の主体が9世紀以降であり、一般的に業務の中心が8世紀の政庁から、10世紀の国司館へと変化していくと言われる中で本地区をどのように評価するかが課題である。それを解く鍵が水田跡、墨書土器「春」や鉄製鋤先にあるものと考えたい。」(『平塚市史 別編 考古(2)』)と分析されている。
(「春」墨書土器は井戸祭祀にかかわる可能性も指摘されており、ここから飛躍が許されるならば、この遺跡について、春秋の農耕祭祀も執り行ったであろう受領クラスの有力者が居住した区画としての性格も想像される)。
 このように、構之内遺跡は、相模国庁所在地の空白期を埋める一つの遺跡として評価できるようだ。しかし、この遺跡も大江公資が活動した11世紀第1四半期までは続かずに、道路状遺構(古代東海道)の廃絶とともに消滅したように思われる。