enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

廻国雑記 の検索結果:

『廻国雑記』の「八幡といへる里」前後のルートについて

…おさらいしたあと、『廻国雑記』での道興准后の相模国通過ルートを、図書館の『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』(1984年 平凡社)などで調べ直してみた。現時点で気になったことをメモしておこうと思う。 【道興准后『廻国雑記』の相模国通過ルート】 ①武蔵国から相模国(鎌倉~金沢~藤沢)を経て小田原に向かうルート 「藤沢の道場」(藤沢市:清浄光寺) 「花水川」(平塚市~大磯町) 「大磯の宿」(大磯町? 平塚市山下?:「古へ虎といひたる好色の住みける所」) 「鴫たつ沢」(大磯町) 「…

あらためて ”平塚八幡宮と八幡” について

…diary.jp) 廻国雑記 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp) 覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) 【「平塚八幡宮」と「八幡」について】(以下、『角川日本地名大辞典 神奈川県』1984年 から抜粋・引用) 〇建久3年〔1192年〕:「『吾妻鑑』建久3年8月9日条にみえる、源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納した八幡宮は当社のことと考えられる」 〇弘治2年〔1556年〕:…

相模国府域を通る古代の道

…八幡といへる里」(『廻国雑記』)の所在地についても、同じような問題が生じる。すなわち、「現・八幡宮はいつから現位置に存在するようになったのか?」という問題が、私の妄想の中で問われ続けているのだ。そもそも、『延喜式』の古代東海道ルートや近世の東海道ルートが、11c代の平塚の地で、どのように機能していたのか・していなかったのか、また、『延喜式』の古代東海道ルートは、国府域内で検出された古代東海道とどのようにつながるのか・つながらないのか、といった問題も、自分のなかで定まっていない…

石清水八幡宮(3)

…いう京都の僧侶が、『廻国雑記』に「 八幡といへる里に神社侍り 法施のついでに あづさ弓 八幡をここにぬかづきぬ 春はみなみの山に待ち見む 」 と記した歌は、平塚の八幡の神社を詠んだものか、とされている。 この歌の八幡の神社について、つい、現在位置の平塚八幡宮のイメージを思い浮かべてしまう。砂丘の高みに建つ八幡宮の現在位置(かつての八幡村、八幡新宿、平塚新宿などの呼称を経て、現在は浅間町)が、都の裏鬼門を守るという石清水八幡宮のように、相模国府中枢域の南西方向にあたることも、面…

「湯坂路」(3)

…瀬音を聞きながら、『廻国雑記』に記されていた道筋を思い出す。 15世紀末、道興准后は、海辺の“早川の浦”で宿をとった。“波を枕に”旅愁の夜を過ごした翌朝、“箱根 三島などへ参詣せん”と、“風祭の里”で渡し船に乗り、この早川沿いを箱根に向かった。そして、おそらく今回の「湯坂路」を歩いた。そしてその夜、“箱根山に行き暮れて、今夜は社参に及ばず”と記し、翌朝、箱根権現に参詣して歌を詠んだのだった。 「こがらしの 錦をたヽむ箱根山 あけて見るにぞ 紅葉なりけり」(道興准后 『廻国雑記…

相模国庁域から八幡宮へ

…たせなかった。梅雨の晴れ間の今日、改めて平塚八幡宮を訪れた。 石清水八幡宮の所領であった「旧国府別宮」、頼朝が神馬を奉納した「八幡宮」、『廻国雑記』の道興が額づいた「八幡といへる里」の神社にはいつ行き着けるだろうか。 相模国庁域を東西に横断する湘南新道 道路の先は相模川を渡る湘南銀河大橋。 国府域東端を走る八幡・四之宮線 右手の家並みは上高間の崖線上に並んでいる。この道は数百m先で相模国庁域を縦断する。相模国庁域は十字路の真下なのだ。 現在の平塚八幡宮(平塚新宿)

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

…に係わる資料として『廻国雑記』という紀行文があることを知った。道興という京都の僧侶が、1486~87年にかけて東国を旅して著したという紀行文のなかで、相模国内の各地についても断片的に触れられていた。 平塚の「八幡」と「八幡宮」についての記述か、とされているのは、 「(前略) 八幡といへる里に神社侍り 法施のついでに あづさ弓 八幡をここにぬかづきぬ 春は南(恵み?)の山に待ち見む (後略)」 私が、「旧国府別宮」の「八幡宮」は(現在の「平塚新宿」の地ではなく)「八幡」の地にあ…