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私の第三十四夜をつづります。

成事智院 の検索結果:

鎌倉国宝館で「實雄」に出会う。

…『平塚市史』による「成事智院蹟」 - enonaiehon (hatenadiary.jp))で引用した實雄の経歴に係る史料が、今まさに眼の前にあることに心騒いだのだ。28歳頃の實雄が、国府津寶金剛寺で灌頂印信を授けられ、62歳頃には、實雄を後継者と定める九世・恵雄(えおう)の遺状が記されたこと、同時期に徳川家康によって大山寺初代学頭に抜擢されていること…という實雄の現実的な足跡が、恵雄の個性的な筆致で記された二つの史料によって、具体性をもって浮かび上がってきたのだった。また…

追記:「成事智院」(高瀬慎吾)から

…3年、高瀬慎吾氏は「成事智院」と題したコラム(『広報ひらつか』№378 1月号 1983年1月15日発行)も書かれているので、そこから短く抜粋・引用して載せておこうと思う。____________________________________ 成事智院は鶴峯山八幡宮(元平塚八幡宮)の別当をしていた真言宗古義の寺である。 この寺は、もと東八幡の小字上高間にあって高間山と号していたが、近世に入ってから八幡大門(明石町)に移り、山号を鶴峯山と変え、当時八幡宮の別当をしていた等覚寺…

追記:「實雄法印の塔」(高瀬慎吾) から

今回、「八幡別当 成事智院」について復習した機会に、高瀬慎吾氏(1900~1991)のコラム(『広報ひらつか』№186 4月号 1967年4月15日発行)も、ここに抜粋・引用しておきたい。____________________________________ 新平塚風土記 132「實雄法印の塔」 高瀬慎吾 (前略) 偶々 八幡村に相州七箇寺随一の古刹といわれる高間山成事智院が天文19年の相模川大洪水に流出したまま未再建であるのを知って これに遷り 再建を計画中、慶長10年(…

追記:『平塚市史』による「成事智院蹟」

…にあった「八幡別当 成事智院」が、1609年、現在の平塚八幡宮の地(旧・八幡新宿)に移った…そのようなイメージが固まりつつある(二次情報の断片をもとにしたイメージとして…)。 一方で、「八幡別当 成事智院」と「八幡宮」を同一視して、「八幡別当 成事智院」の位置をそのまま「八幡宮」の位置と考えて問題ないのだろうか?という、素人の疑問があった。つまり、「八幡宮」の遷座が先行していた状況のなかで、「八幡別当 成事智院」の移動が何らかの理由で後れてしまい(もしくは「八幡別当」の在り方…

あらためて ”平塚八幡宮と八幡” について

…、「旧国府別宮」や「成事智院」という言葉が頭の中でグルグル回り続けた)。 一日たって、まだ興奮がさめやらぬなか、『enonaiehon』の記事を検索し、その”思考”錯誤の足跡を、あらためてまとめ直しておこうと思う。 ____________________________________ 旧国府別宮 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp) 成事智院 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp) 上高間 の検索結果 - …

相模国府域を通る古代の道

…枢域付近(下図中で「成事智院旧地か?」とした地点)にあったのではないか?という疑問(単純には、現・平塚八幡宮の周辺から11世紀代の遺物・遺構が検出されることで解消される疑問)を打ち消すことができないがために、現・八幡宮の地点から「フタツヤ」までの道筋や、「フタツヤ」から分岐する南北道の「粕屋道」について、ともに11c代にさかのぼらないものとして、恣意的に捨て去った。結果的に現・八幡宮は、国府域から南に離れた地点に、孤立した形で示されることになった。 さらに、12c中葉の時点で…

相模国庁域から八幡宮へ

…伝承が残る八幡別当の成事智院。その幻の寺院がこの”上高間”の地区にあったとしても、現在は”八王子道”の東の崖線に沿った家並みを残して、沖積低地上の遺構の大半は根こそぎ失われてしまっているだろう。別当寺院の寺域はもとより、”旧八幡宮”の在処の手掛かりは今のところ見つからない。 (補注:『平塚地名考』〔今井 英雄 1973〕の「上高間」の項には、「昔九三四、九四八、九五五番地に成事智院という八幡神社の別當寺があったが相模川流亡のため八幡新宿等覚院へ慶長十四年移遷し後幾何ならず廃寺…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

…なかでも八幡別当坊の成事智院があったとされる「上高間(かみたかま)」は標高5mほどの相模川の沖積低地で、古代においては、さらに低い低湿地が広がっていたと考えられる。 一方、この歌の神社が、仮に現在の「平塚八幡宮」が位置する「平塚新宿」の地域(「八幡」から分かれる前であれば地名は「八幡」のまま)にあったならば、”南の山”は、現在の「平塚八幡宮」内に残る砂丘の高まりなどが相当するのだろうか。「八幡」について調べるなかで、さらに混乱が深まっていくようだ。 (補記:『廻国雑記』では、…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1)

…に「八幡宮」別当職が成事智院から等覚院に移されたこと。そして、その成事智院は「八幡」の「上高間」周辺にあったと伝承されること(現在の平塚八幡宮は、「上高間」の南西約2kmに位置している)。 こうした流れから、再び堂々巡りが始まる。 現在の「平塚八幡宮」は、近世期になって現在位置の地域に移転したのではないかと。その契機の一つとして、相模川の洪水などが係わるのではないかと。そして、この相模川の洪水が及ぶような地域、すなわち相模国府域東端の地…現在の「八幡」の地域について、もう少し…

相模国府と「八幡宮」

…当職を等覚院に移した成事智院の跡地は耕地となったが、同地も洪水により川欠の地となったという」(『角川日本地名大辞典 神奈川県』1984年)とある。 *「上高間」について、 「成事智院という八幡神社の別当があったと言われ」、 「成事智院は相模川の氾濫で八幡新宿(注:慶安4年〔1651〕、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となったとされる)の等覚院に移された」(『平塚市地名誌事典』小川治良 2000年)とある。 *「成事智院」について、 「この寺 慶長14年(注:1609…