enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

上高間 の検索結果:

追記:「成事智院」(高瀬慎吾)から

…は、もと東八幡の小字上高間にあって高間山と号していたが、近世に入ってから八幡大門(明石町)に移り、山号を鶴峯山と変え、当時八幡宮の別当をしていた等覚寺とかわったのである。 この寺は既に廃されて無く、開山、開基、中世までの歴代住職なども伝わっていないが、八幡宮のもとの所在地をうんぬんし、更に大住国府の所在地を推定しようとする者にとっては欠かせない存在として前々から注目されていた。(中略) 同14年(注:慶長14年、1609年)、頼慶の命によって、これを八幡宮の別当とし、等覚寺を…

追記:「實雄法印の塔」(高瀬慎吾) から

…退していた成事智院を上高間から移転させ、八幡新宿の地で八幡宮とともに再興した…そのような想定が書かれている。 そして、成事智院の移転の背景として、「天文19年の相模川大洪水」による流出を想定されている。(とすれば、成事智院が16世紀末に「相州七か寺」の一つとして存在感を示しているのも、大洪水で流出以降、實雄が実際に再建に着手しはじめたからなのだろうか。 なお、コラムには、上高間での成事智院の再建計画が、同時期・同地点での八幡宮の再建を含むようには書かれていない。 もし、上高間…

追記:『平塚市史』による「成事智院蹟」

…、その「八幡」の地(上高間)にあった「八幡別当 成事智院」が、1609年、現在の平塚八幡宮の地(旧・八幡新宿)に移った…そのようなイメージが固まりつつある(二次情報の断片をもとにしたイメージとして…)。 一方で、「八幡別当 成事智院」と「八幡宮」を同一視して、「八幡別当 成事智院」の位置をそのまま「八幡宮」の位置と考えて問題ないのだろうか?という、素人の疑問があった。つまり、「八幡宮」の遷座が先行していた状況のなかで、「八幡別当 成事智院」の移動が何らかの理由で後れてしまい(…

あらためて ”平塚八幡宮と八幡” について

…diary.jp) 上高間 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp) 廻国雑記 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp) 覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) 【「平塚八幡宮」と「八幡」について】(以下、『角川日本地名大辞典 神奈川県』1984年 から抜粋・引用) 〇建久3年〔1192年〕:「『吾妻鑑』建久3年8月9日条にみえる、源頼朝が政子の安産祈願の…

相模国庁域から八幡宮へ

…地したと想定される”上高間”の現状地形も確かめることができた。 相模川氾濫によって移転跡地さえも流失したとの伝承が残る八幡別当の成事智院。その幻の寺院がこの”上高間”の地区にあったとしても、現在は”八王子道”の東の崖線に沿った家並みを残して、沖積低地上の遺構の大半は根こそぎ失われてしまっているだろう。別当寺院の寺域はもとより、”旧八幡宮”の在処の手掛かりは今のところ見つからない。 (補注:『平塚地名考』〔今井 英雄 1973〕の「上高間」の項には、「昔九三四、九四八、九五五番…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(2)

…院があったとされる「上高間(かみたかま)」は標高5mほどの相模川の沖積低地で、古代においては、さらに低い低湿地が広がっていたと考えられる。 一方、この歌の神社が、仮に現在の「平塚八幡宮」が位置する「平塚新宿」の地域(「八幡」から分かれる前であれば地名は「八幡」のまま)にあったならば、”南の山”は、現在の「平塚八幡宮」内に残る砂丘の高まりなどが相当するのだろうか。「八幡」について調べるなかで、さらに混乱が深まっていくようだ。 (補記:『廻国雑記』では、この記述のあと、剣沢の氷、…

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1)

…院に移されたこと。そして、その成事智院は「八幡」の「上高間」周辺にあったと伝承されること(現在の平塚八幡宮は、「上高間」の南西約2kmに位置している)。 こうした流れから、再び堂々巡りが始まる。 現在の「平塚八幡宮」は、近世期になって現在位置の地域に移転したのではないかと。その契機の一つとして、相模川の洪水などが係わるのではないかと。そして、この相模川の洪水が及ぶような地域、すなわち相模国府域東端の地…現在の「八幡」の地域について、もう少し考え続けてみたいと思う。

相模国府と「八幡宮」

…丁目の一部(小字名:上高間 かみたかま)にあたると思われるが、その位置は果たして11世紀代まで遡ることが可能だろうか。 *「平塚八幡宮」と「八幡」について (その旧位置は”上高間”であったという可能性を探しつつ…) 「『吾妻鑑』建久3年(注:1192年)8月9日条にみえる、源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納した八幡宮は当社のことと考えられる」、 「弘治2年(注:1556年)、北条氏康と武田信玄が戦ったさい戦火をうけ社殿が焼失した」、 「当社付近は永禄4年(注:1561年…