enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模との出会い

 最近出逢ったばかりの歌人相模と大江公資。彼らは私にとって歴史上の人物名にとどまらない、身近な人々になってきたように思う。これまで、古い和歌のなかの情景に心惹かれることはあっても、その歌を詠んだ人の心にまで入り込むことはなかった。今は、走湯百首を書き留めた歌人相模の心模様も、私なりに想像できるような気がする。
 『金葉和歌集』巻七(恋部上)に大江公資の歌が、そしてやや離れて歌人相模の歌が載っていた。私には二人の間でやり取りされた歌のように思えた。
       
     女のがりつかはしける                           大江公資朝臣
  しの薄(すすき) 上葉にすがく蜘蛛(ささがに)の いかさまにせば人なびきなん
 
     野分のしたりけるに いかゞなどおとづれたりける人の 
     その後また音もせざりければつかはしける                    相模
  荒かりし 風ののちより絶えするは 蜘蛛手にすがく糸にやあるらん                        
 
 また『後拾遺和歌集』には、彼らが相模国から都へと戻った頃のやり取りも残されている。
(”老曾(おいそ)の森”の歌では、相模国司大江公資が近江国東山道を通ったように想像される。)
 
     相模守にてのぼり侍りけるに 
     老曾の森のもとにてほとゝぎすを聞きてよめる             大江公資朝臣
  東路の おもひでにせんほとゝぎす  老曾の森の夜半の一ゑ           (『後拾遺和歌集』巻三 夏)
 
(『相模集』 の中に…走湯百首歌群には含まれず、詠まれた時期・背景は今の私には不明なのだが…
 
     「ほとゝきすのこゑをまさしくきゝて」 の詞書の次に、
  「きかてたゝ ねなましものをほとゝきす 中/\なりや よはのひとこゑ」 がある。
 
 荒唐無稽な空想かもしれないが、この歌のホトトギスは、歌人相模が夫・大江公資と共に、老曾の森で「まさしくきいた」ホトトギスではないかと思う。)
 
 歌人相模がその後、大江公資と別れた頃の歌からは、東路への懐かしさ、去っていく人への思いが伝わってくる。一千年前に生きた彼女の心のうちの葛藤は、今に生きる私にも生々しい。
 
     大江公資相模の守に侍りける時、もろともにかの国に下りて 
     遠江守にて侍りける頃 忘られにければ 
     こと女をゐて下ると聞きてつかはしける                        相模
  逢坂の 関に心はかよはねど 見し東路はなをぞ恋しき            (『後拾遺和歌集』巻十六 雑ニ)          
 そして更に、同じ背景のもとに詠まれた相模の歌。
     大江公資に忘られてよめる                               相模               夕暮は またれしものを いまはたゞ 行くらむかたを思ひこそやれ          (『詞花和歌集』巻第八) 
 
(なお、この歌は『相模集』の中では
 
      かれ/\になりゆく人のもとに
      ゆふくれにさしをかする
   ゆふくれは またれしものを いまはたゝ ゆくらむかたを 思こそやれ
 
 とある。)
 
 これらの歌を眺めてみて思う。歌人相模の走湯百首に対する返歌は、やはり夫・大江公資からのものなのでは、と。そして、11世紀初めの相模国司夫妻として出逢った彼らが、今も確かに生きているように感じられて励まされる。