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私の第三十四夜をつづります。

覚書:歌人相模の道(1)

①2012.4.6 【日向薬師、そして走湯権現へ】
 昨年2011年2月、相模国府比定地の平塚から、同じ古代大住郡内の伊勢原にある日向薬師まで、二日かけて歩いてみた。相模国司大江公資の妻、歌人相模の参詣路を推定し、その推定ルートに近い現代の道を実際に歩くことで、11世紀前半の時空に少しでも近づいてみたかった。
 その後、日向薬師の宝城坊は大改修に入り、古建築への興味を誘う現地説明会にも参加した。2年にわたって何回か日向薬師に足を運ぶなかで、寺に残る鉈彫りの薬師三尊像、布目瓦などを眼の当たりにし、日向薬師歌人相模の係わりを、『相模集』の一記述としてではなく、自分の脚と眼で確認できたような気がした。
 そして2012年の今、歌人相模のもう一つの参詣地である走湯権現へのルートを歩こうと思い、『相模集』のなかに、11世紀前半の相模国に係わる”言葉の手がかり”があるだろうかと、慣れない古語の跡を辿っている。
 その歌人相模の走湯権現への足跡は、一方で、夫の大江公資の早川牧、その後の早川庄に至るルートにも重なるのか。主要官道の古代東海道のルートは復元されているが(『神奈川の古代道』 1997 藤沢市教育委員会博物館準備担当)、伊豆半島を南下するルートはどこにあるのか。 
  ”緑釉陶器の道”に加えて”歌人相模の道”も・・・追いかける道だけが増えてゆくようだ。
 
    「御山まで かけくるなみの みちひかは よにあるかいも ひろはさらめや」
    「みやまなる とみくさのはな つみにとて ゆるきのそてを ふりいてゝそこし」  
                                 〔『相模集』走湯百首群から:相模の歌 ”さいはひ”の部〕 
 
②2012.4.7 【田子、そして多古へ】 
 『相模集』走湯百首歌群”早夏”の部に、「我せこか くはるひさなへ おきながら しろきや たこのもすそなるらむ」の歌がある。 この歌の「たこ」に「田子(農民)」を当てるとして、後世の「相模国 足下郡 早河庄 田子郷 一得名」の「田子」へとつながる地名に掛けた可能性はないかと想像を膨らませた。
 つまり、夫の大江公資が経営する早川牧周辺の地名として、当時すでに「田子」が存在し、妻の歌人相模が、走湯権現への参詣路に近いその地で、「田子」の地名に掛けて歌を詠んだのではないかと。
    〔注:「相模国 足下郡 早河庄 田子郷 一得名」については、「現在の小田原市扇町3・5・6丁目、多古付近と推定されている(『角川地名大辞典 14』)」。〕 
 なお、この歌に対する権現僧の返歌とされるのが「さみたれの なへひきうへて いもかこし やしろのもとに またもみえなむ」。更に、歌人相模が僧に返した歌として「みとしろの なへひきつれて おりたちし たこのすがたよ いかにみえけむ」があり、「みとしろ(神田)」での農作業をもとに詠んだ歌と理解される。
 権現からの返歌百首については、僧の作なのか、夫の大江公資の作なのか、相模本人の作なのか、説が分かれるようだが、『相模集』の全釈では、これら一連の歌はどのように解釈されているのだろうか。「みとしろ」の作業が公的な意味合いを持つものなのか、また「みとしろ」での夫の姿を詠む妻相模の心理的背景まで憶測されて興味深い。 
 
    「我せこか くはるひさなへ おきながら しろきや たこのもすそなるらむ」   〔相模の歌 ”早夏”の部〕    「さみたれの なへひきうへて いもかこし やしろのもとに またもみえなむ」
                                         〔僧の返歌とされる歌 ”なつのはじめ”の部〕  
    「みとしろの なへひきつれて おりたちし たこのすがたよ いかにみえけむ」 
                                                   〔相模の返歌 ”四月”の部〕