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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言9 「権現の御かへり」(3)能因

 「権現の御かへり」として返歌を詠んだのは誰か。
 この問いかけを続けるのは、11世紀前半に生きた相模という歌人像を自分なりに描いてみたいと願うからだ。
 「権現の御かへり」を実在した走湯権現僧が詠んだとする時、大江公資が詠んだとする時、そのどちらでもない第三者が詠んだとする時、あるいは相模自身が詠んだとする時、それぞれの想定によって、その相模像は変現することだろう。
 私がそれを特定できるはずもないし、また特定しようとすることは、相模の人間像・歌人像を限定することになるだろうと思う。21世紀に生きる私の解釈の届かないところで、過去の人は自由に生き続けるべきなのだと思う。
 ただ、それらのさまざまな可能性について思い巡らすことで、自分の平面的な相模像を少しでも肉付けしてみたいとも思うのだ。 
 
 まず、静範のような”都の僧の可能性”の先をたどるとすれば、返歌を代詠した人物と時期とを整合させなければならない。「権現の御かへり」が『流布本相模集』の詞書どおりの時期に詠まれたとすれば、それは、およそ1023年~1024年(治安三年~万寿元年)頃と考えられる。
 そして、この時期に、相模(そして大江公資)の周辺で、相模の百首歌に権現僧として返歌の代詠を試みることができる人はいるだろうか。
 今回、その一人として想定するのは、相模と同時代に生きた能因という歌人だ。
 能因(988年生~1050年没? 1013~1014年頃出家)の私家集『能因法師集』(『新編国歌大観』角川書店 1985年)を見ると、相模守となって下向する大江公資に贈った歌
 「公資朝臣さがみになりて 寛仁四年云云 くだるに
 88 ふるさとを 思ひいでつつ 秋かぜに きよみが関をこえむとすらむ 」 がある(寛仁四年は1020年)。
 そして、88の歌の前には、筑前源道済朝臣に向けた歌【81 長和四年(1015年)、86 寛仁三年(1019年)】、88の歌のあとには三河守源為善の任国下向に係わると思われる歌【89・90】(寛仁年間の1017~1020年か)が、長和・寛仁と年代を追って並んでいる。
 また92~96の歌(秋児屋池亭五首)の小序には「万寿元年秋、我等年三十七」とある(万寿元年は1024年)。
 能因のこれらの歌の時期は、まさに相模が走湯権現に百首を奉納し、「権現の御かへり」百首が詠まれた時期にあたっている。
 また、寛仁年間、89・90の歌の詞書のように能因が実際に三河国に滞在していたのであれば、相模国へと下向する大江公資と相模の一行が駿河国の「きよみが関」(清見関。静岡県静岡市)を今越えようとする限定された場所や時間を、リアルタイムであるかのように88の歌で思い馳せていることも自然であるように感じられる(1020年頃の東海道を、30代の相模と能因がすれ違うように行き来していたことを思うのは楽しい。思えば、少女時代の菅原孝標女も寛仁四年十月、清見関を越えたのだった。)。
 そして、92~96の歌の詞書から、能因は治安三年~万寿元年頃には摂津国に戻っていたと考えられ、その時点で、権現僧の返歌の代詠の依頼を相模から持ちかけられた…すなわち、相模が奉納した走湯権現百首に百首を返す権現僧の役割という、これまでにない設定での歌作りに心を動かされ、受け入れた…との想定ができないだろうか。
 この私の全くの夢想にとっての心強い論考として、『相模と「六人党」-能因 摂津源氏 橘則長-』(高重久美 『文学史研究』2001)がある。
 高重氏の論考では、相模は「長和初年(一〇一二)の公資との結婚以前に、叔父に当たる為政を介して大江嘉言や橘永愷(能因)と交流を持っていた」とされている。
 また、長元6年(1033年)頃の二人の親しい交友関係をうかがわせるものとして、『流布本相模集』の
 
 「津の国に住む児屋の入道、歌物語など大方に言ふ人なりけり、門の前を渡るとて、急ぐ事ありてえ参らず、何ごとかと言ひたれば」の詞書と、
 「185 難波人 急がぬ旅の 道ならば こやとばかりも言ひはしてまし」の歌を挙げて、
 
「相模の家の門前を通る時に「急ぎの用があってうかがえません。お変わりありませんか。」と一言挨拶をして通り過ぎようとする能因の方にも、能因に「難波の人よ」と呼びかけ、「まあまあお忙しいこと」と返す相模の方にも、相互に本人同士の親しさ、心安さが感じられて、二人が以前から交友を持っていたことを教える。」とされている(前掲の高重久美『相模と「六人党」』)。
 
 さらに、能因の歌
 「91 単衣なる蝉の羽衣夏はなを 薄しといへどあつくも有哉」(時期は万寿元年前後か)や
 「99 さゝがにの糸にかゝれる白露は 荒れたる宿の玉すだれ哉」(高重氏によれば、「万寿初年頃」)が、
 相模の歌
 「流布本相模集‐544 単衣なる夏の衣は薄けれど あつしとのみもいはれぬるかな」や
 「異本相模集‐2    さゝがにの糸にかゝれる白露は 常ならぬ世と経る身成りけり」
の影響を受けていると論考されている(前掲の高重久美『相模と「六人党」』)。
 さらには「能因は、そのような相模を歌人として共に切磋琢磨するに相応しい同志としてみていたようだ。」とも言及されている(前掲の高重久美『相模と「六人党」』)。
 果たして、「権現僧の御かへり」を詠んだ歌人を能因と想定するのは荒唐無稽というべきなのだろうか。それとも多少の蓋然性を予想しても許されるだろうか。もう少し思い惑ってみたい。