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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言14 柱や壁に歌を書きつける ということ

 「はるかなるほどにありしをり、目にわづらふ事ありて、日向といふ寺にこもりて、薬師経などよませしついでに。いでし日 柱に書きつけし
  525 さしてこ し日向の山にたのむには 目もあきらかに 見えざらめやは 」(『相模集全釈』から)
 
 『相模集全釈』の語釈には、相模以外に、他の人が堂の柱や家の壁に歌を書きつけた例がいくつか示されている。
 私は『全釈』を読む前、相模が走湯権現の社頭に百首の和歌を埋納したり、日向薬師の柱に歌を書きつけたことを、彼女独特の表現行為の形と思っていた。
 相模という歌人は、どのような時にも、自身の存在の痕跡を遺しておきたいという欲求が強い人だったのだろうと。
 しかし、その後、『全釈』で挙げられた藤原兼輔朝臣後撰集 1399)、赤染衛門赤染衛門集 173)の歌のほかにも、能因(能因集 14・15)や、時代は下がるけれども鴨長明吾妻鏡 建暦元年十月大十三日)など、社寺に歌を書きつけている例があることを知った。
 また、これらの他にも、『能因集注釈』(川村晃生 日本古典文学会 貴重本刊行会 1992年)では、『拾遺集』の1053・1268・1345の歌、『後拾遺集』の1167・1176・1177の歌の例が挙げられていた。
(川村晃生氏は、社寺に歌を書きつける行為について、「おそらく奉納の意図を含む、法楽和歌の古い形態なのであろう」とされている。)
 まだ、事例の歌のすべてを読んではいないけれど、赤染衛門集からは、尾張国へ下向する旅の様子(大津から愛知川まで船で琵琶湖を渡ったこと、ひどく雨漏りのする源頼光の家や、岸辺に作られた仮屋などに泊まっていること)を知ることができた。
 相模の日向薬師の歌をきっかけに、柱や壁に歌を書きつけることの意味、11世紀の旅の道筋や苦労を知ることになった。こうして、自分がいかに何も知らないか、研究者の方々の眼がいかに細々な部分まで行き届いているものかということを、ただただ思い知る毎日だ。