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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模 と 橘 為仲

 源 経信のように歌人相模と直接の歌のやり取りは見られないけれども、「箱根山の月」を詠んだ橘 為仲は、和歌六人党に連なるという点で、歌人相模と接点のある人だった。
(以前、高重久美氏の『相模と「六人党」-能因 摂津源氏 橘則長-』の論考をネット上で読み、その時にすでに歌人相模と源 経信・橘 為仲との係りについて目にしていたことを忘れていた。今回、その論考を読み返し、改めて相模と和歌六人党との接点を確認することになった。)

「為仲集」のなかで、歌人相模や能因、和歌六人党の源 頼家と係るところを、『新編国歌大観』から引用させていただく。
 
「 よるのあられを、ゑちうのかみ よりいへ がもとにて、古曾辺入道 相模 不会
26 とふ人も なき冬のよの さよなかに 音するものは あられなりけり 」
 
「 ゑちうのさきのかみ よりいえ がもとに、ひさしくこそ、とありし返りごとに おくりたりし
103 あけくらし みてもろ人の こひしくて まれにもとふは うれしかりけり
  かへし
104 こひしとは 我がみひとりを いはねども いとしも とはまほしき きみかな 」
 
 26の歌の詞書には、越中守頼家の歌会に能因と相模は不会、とだけ記されている。この時期、歌人相模は60代前半、能因は60代後半という老年期に達していたと思われる(『相模集全釈』の年表から推測して、能因はこの時、病床にあったのかもしれない、などと想像した)。 
一方、橘 為仲は40代前半、源 頼家は40代後半といった壮年期にあたりそうだ。高重久美氏の論考では、相模も能因も、和歌六人党の先達として大きく係ったとされているが、この歌会の頃には、すでに若手(中堅?)の指導的立場から退いていたのだろうか。
 

 26の歌については、「音するもの」に「訪るもの」を重ねたことに面白さがあるのだろうか、と覚束ない理解をしながらも、やはり詞書に「古曾辺入道」と「相模」の名が残されたことの意義が大きいように感じた。当時の貴族や僧や女房などが、機会あるごとに歌を詠み、先達として指導し、また指導を仰いでいたこと、そして、彼らの歌への情熱、並々ならぬエネルギーをうかがわせるからだ。

また、和歌六人党が受領階級の人々の集まりでもあることから、受領層の旅と当時の歌の世界の間に、意義のある相互作用が働いていたのでは、というイメージを持った。もちろん、非日常の旅に新鮮な風物の発見があり、それが歌を生むことは、平安時代に限ったことではない。ただ、受領経験者だからこその共通の視点が、彼らの歌の世界に反映されることがあったのではないだろうか。
受領たちは、都から遠く離れてゆく旅や、地方での不本意な暮らしを嘆く一方で、それを経験した者だけが感応できる世界があることを知ったはずだ。旅を経験した人、また都と隔絶した暮らしを経験した人は、歌の世界において、従来の都の生活では得られない、新しい可能性を獲得したように感じたのではないだろうか…そんなことを思い浮かべた。
 
 

 一方、103104の前越中守頼家と橘 為仲とのやり取りからは、軽口とも皮肉とも受け取れるような、二人の交友関係の微妙さを感じた(和歌六人党に関するエピソード…源 頼家が橘 為仲を自分と同列の和歌六人党の歌人とは評価していなかったことを伝えるもの…などが先入観になっているからかもしれないが)。
 

 そして改めて感じるのは、人々の人生に歌が果たした役割の不思議さだ。さまざまな人間関係の背景に、“歌を詠む”という共通のよりどころがあった時代を想像する時、やはり驚きと憧れのようなものを感じないではいられない。そして、当時の彼らはなぜ日常的に歌を詠んだのか、と改めて考えさせられるのだ。