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私の第三十四夜をつづります。

覚書:歌人相模の道(2)

③2012.4.8 【万寿元年、そして国司館火災へ】
 早川牧や早川荘については、早川流域から箱根山麓にかけてあったと想定されているが、現在の早川の地に真福寺があり、万寿元年(1024)創建と伝えられ、後の12世紀頃の作とされる聖観世音菩薩立像が残る。また、同じ早川に紀伊神社があり、平安時代末期の常滑三筋壺と渥美窯灰釉壺、中国宋代の青白磁小壺が残り、平安時代造営の経塚に関連するものとされている(『私の早川村誌』 青木友吉 1996)。
 一方、歌人相模は治安元年(1021)頃、夫の大江公資と共に相模に下向し、「三年といふとしの正月」(万寿元年=1024年の頃か?)に走湯権現に参詣して百首を奉納し、その後、「四月十五日に かの山のあるそうのもとから 権現の御かへりとて」百首の返歌があったとされる。
 この権現僧からの返歌を受けた流れで、「そのとし たちのやけにしかは」とあるので、「たち(館)」の火災は1024年頃のできごと、との推定が可能かもしれない(恐らくは、僧からの返歌を受けた四月以降か?)。
    〔注:この国司館火災については、『足柄の里と坂の古代的世界』(鳥養直樹 2004)ですでに言及されている。〕
 相模国司館の火災、早川の真福寺の創建、国司大江公資による早川牧の経営、歌人相模の走湯権現への百首奉納・・・11世紀第一四半期の平塚~早川~熱海をつなぐようないくつかの手がかりをもとに、私の相模国府の旅は周辺の地域、時代、人々の中へと更に迷い込んでいく。 
 
④2012.4.9 【「たち」、そして「やど」へ】
 『相模集』走湯百首歌群のなかで、「たち(館)」、「やど(宿)」の語が使われている。歌人相模は「たち」に住みながら、歌の中では「やど」と表現したのか。それとも「たち」と「やど」とは、公私を分けて別個に存在したのか。 
 
   「わかやとの ませのゆひめも あたなれは つゆにしほるゝ とこなつのはな」  〔相模の歌 ”終夏”の部〕
   「とこなつの はなをひしける まつかきも ゆひかためては つゆもゝらさし」
                                           〔僧の返歌とされる歌 ”はてのなつ”の部〕
   「とこなつに あたなるはなのつゆなれは 心をかれぬ おりはなきかな」   〔相模の返歌 ”六月”の部〕 
 
   〔注:「とこなつのはな」は”なでしこの花”とされる。『相模集』走湯百首歌群約300首のなかの5首に「とこなつのはな」が歌われ、歌人相模その人と重ね合わせられる。『更級日記』の作者が「もろこしが原に やまと撫子しも咲きけむこそ」と記したように、歌人相模もまた、平塚から大磯にかけての浜辺に咲く”なでしこの花”を眼にし、自身を「やど」で露に萎れる”なでしこの花”にたとえたのだろうか。〕 
 ”相模の奉納百首→僧の返歌とされる百首→再び相模の返歌百首”を眺めてみると、国司の妻である相模の「やど」には、”なでしこの花”、”うのはな”、”はなたち花”などの季節の花々が咲き、”ませ垣”で囲まれていたらしいことがわかる。その「やど」は「たち」とは別個の私的な住まいとして想像される。
    〔注:僧からの返歌を夫の作とすれば、国司である夫も、「わがやとの くもゐにさける さくらはな みる人ことに あかすとそいふ」と、空高く咲き誇る見事な桜花を歌っているが、この「やと」は「たち」である可能性も残るだろうか。「たち」はあくまでも公的な政務施設であるため、歌の中では「やど」に置き換えたとも考えられる。〕
 そして、夫が勤務・管理する国司館の禍々しい火災を、「そのとし たちの やけにしかは」と他人事として突き放すかのような妻の相模。恐らく、彼女の「やど」は、当時の国府平塚の国司館ではなかったのだろう。そして、国司館と同じ区画の中にさえなかったのかもしれない。『相模集』走湯百首歌群からは、夫と妻の距離感が、そのまま「たち」と「やど」との距離感にも通じるように感じられる。 
 
    「みやまなる とみくさのはな つみにとて ゆるきのそてを ふりいてゝそこし」 
                                                   〔相模の歌 ”さいはひ”の部〕
    「わかやとの とみくさのはな つまゝせは さかへをひらく 身とそなるへき」
                                            〔僧の返歌とされる歌 ”さいはひ”の部〕
    「さきのよに たねうへをかぬ みなれとも なをつみゝてむ とみくさのはな」  
                                                 〔相模の返歌 ”さいはひ”の部〕
 「みやま(御山=走湯権現か)」に生える「とみくさ(富草=幸いをもたらす草か)」を摘みにふり出てきたのです
・・・と歌う中で、「ゆるき」の語が使われていることが興味を引く。「ゆるき」の語が、もし「余綾」に掛けているならば、(大住郡平塚の地ではなく)余綾郡に所在する「やど」を出立した、という可能性が生まれないだろうか。
    〔注:僧の返歌を大江公資の作と仮定すると、象徴的な花のような「とみくさ」を巡っても、彼らの「やど」の距離感、心のすれ違いが生じているようだ。国司夫妻は果たして(それぞれ)どこに住んでいたのか。相模国府は12世紀半ばには余綾郡(大磯)に移遷していたとされている。11世紀前半の相模国国司館の所在地・あり方について、改めて考えてみる必要があるのかもしれない。〕 
 一方、「御山まで かけくるなみの みちひかは よにあるかいも ひろはさらめや」(相模の歌 ”さいはひ”の部)からは、山上から眼下の海を眺望しただけにはとどまらないような、波の躍動感が伝わってくるように思う。走湯権現への参詣路として、箱根越えとは別のルート・・・海沿いの道も想定できるのではないか。
 11世紀前半、歌人相模と大江公資が数年を過ごした「たち」、そして「やど」。そこを拠点に、彼らは官人として歌人として、そして”物思う”人間として、様々な活動を繰り広げた。現代の考古学的な発掘調査のなかで、それらがどのような形で明らかにされるのか。その日が来ることを夢見て、私の相模国府を巡る妄想旅行を続けようと思う(とりとめなく書き留めた疑問のいくつかは、いずれ『相模集』の全釈を読むことで解決されるのかもしれない)
 
⑤2012.4.11 【「なこしのはらへ」、そして「かくら」へ】
 
    「おほぬさに ちとせをかけていのるかな かみの心も なこしと思へは」     〔相模の歌 ”終夏”の部〕
    「みたらしに なこしのはらへする人を みるにわれさへ たのもしきかな」 
                                           〔僧の返歌とされる歌 ”はてのなつ”の部〕
    「思事 しけきふもとにみそきする せゝのかはかせ ふきはらはなむ」    〔相模の返歌 ”六月”の部〕
    「をとめこか かさすひかけの なにしをはゝ くもらぬとよのあかりともかな」 〔相模の歌 ”中冬”の部〕
                                                     (僧の返歌とされる歌 欠)
    「にはひたく かくらのにはの いちしるく わかさかきはの さしはやさなむ」 〔相模の歌 ”十一月”の部〕
 
 これらの歌の「おほぬさ」、「なこしのはらへ」、「みたらし」の池、「みそき」の川の瀬と風、「にはひ」、「かくらのには」、「さかきは」などは、実景なのだろうか。「をとめこ」は五節舞舞姫のように舞ったのだろうか。「かくら」はどのように演奏されたのだろうか。そして、これらの歌の神祭や神楽は、実際に国府平塚で行われたものなのだろうか。
 この疑問については、今後も考古学的に実証されることはないように思う。しかし、『相模集』走湯百首歌群の中に埋もれた言葉のかけら、歌人相模の五感を通じて、11世紀前半の東国の匂いを感じ取ることができれば嬉しい。