29日、友人とともに「国会包囲共同行動」に参加した。
議事堂をめぐる歩道には、押しつぶされた銀杏たちのしみが広がっていた。
これまで迎えた秋のなかで、道端のつぶれた銀杏を見ながら、そのようなことを思ったことは一度もなかった。
心配した鎖はどうにかつながったようだった。
私のヒステリックなシュプレヒコールなど、ストレスの発散でしかない。
こんな時、憤りや虚しさがない交ぜになった底から、自分への忸怩たる思いが噴き出してくる。
私の中で、『おまえはいつもいつも、そうしてきれいごとばかりだ』『いつもいつも逃げて、いつもいつもずるい』『面倒なことは何も引き受けないで生きている。嘘っぱちのきれいごとばかりなんだ』という声がする。これが一番こたえる。
友人からもらったバッジ…平塚の海が辺野古の海と同じような道筋をたどったら、私はどうするのだろう。もらう資格などないのに、私はやはりきれいごとでもらってしまった。そして自分の泥沼を、書くことで楽になろうとしている。こんな泥沼から、いつか解き放たれる時はやって来るのだろう。