enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2014.3.6

 先日、集合住宅の塀際に立つ一本の樹の名前を尋ねられた。”名前”を知ること、覚えることの苦手な私が知る由もなかった。ただ、その特徴のある葉の形から、すぐにその名前が分かった。その名も「カクレミノ」。
 その樹の”名前”を知って、なぜか安心する。もちろん、その”名前”は、眼の前の樹にとって何ほどの意味も無い。その一本の樹は、その一本の樹だ。
 今朝になって、「美しい花」と「花の美しさ」という言葉を思い出す。その言葉について調べるなかで、坂口安吾の「教祖の文学 -小林秀雄論- 」を読んだ(青空文庫作成ファイル)。
 その「小林秀雄論」はがむしゃらな勢いがあった。坂口安吾の”名前”のみを知る私だけれど、彼の、素手小林秀雄をねじふせるかのような元気な文章に励まされた。
 私が調べようとしていたのは、…美しい「花」がある。 「花」の美しさといふ様なものはない…という小林秀雄の言葉であったことも分かった。韜晦的で余白を感じさせ、若い時も分からなかったが、今も分かったようで分からない。
 初めて読んだ坂口安吾の「小林秀雄論」は、酒を飲みつつ、勢いづく文学論を聞いているようだった。生き生きと面白い。
 坂口安吾という人は、”冷めた眼”の認識者としての生き方ではなく、生身でギリギリ生きるなかで”見る”という生き方を突き進んでいった人なのだろうと思った。(人間は、隠れ蓑無しに、生身を見つめて生きていくのは大変だろうと思うのだけれど。)
 
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