何年ぶりだろう。昨日、4月公演のチケットを申し込むために、朝から電話の前にすわった。若い頃は、黒電話の重いダイヤルを必死に、人差し指が強張るほど回し続けていたように思う。
今の電話なら指の負担も軽い。啼くまで待とう、ホトトギス…そのぐらいの気持ちでかけ続ける。それでも、20~30回はかけたのだろうか。あきらめてしまう前につながった。
午後、散歩に出かけ、近くの店のレジで発行されたチケットを受け取った。いつものように天井桟敷の席。4月が来るのが楽しみだ…そうした気持ちも久しぶりだった。
その一方で、やはり疚しい自分がいる。いつも、どこまでもついてくる疚しさ。いったい、何に対する疚しさなのだろう。いつからか、何かしらの不安・不自由から解放されている、もしくは逃げている自分への疚しさを感じるようになった。だからだろうか、生きることの充足を感じる閾値は低くなっているように思う。
空を見上げる。歩く。季節の移り変わりのなかで、よどみのない外気を吸い込む。光と風を感じる。その喜びは、疚しさを越えてしまう。
2月2日の海
砂の地模型?
光るシーグラス(海硝子)
防砂林のなかで光る枯れ葉