10代の頃、太陽の光にあふれる外界というものに馴染めない時期が続いた。
できれば光を遮り、薄暗いところにいたい…光を忌避するようになったのはなぜだったろう。
学生生活を終え、何年か経つと、違和感が際立っていた外界や社会に馴染むようにもなった。
その頃には、光は昼の時間、闇は夜の時間を示すだけになっていた。
ただ、今でも、雨や曇りの日が嫌いではない。それは、10代の鬱屈の名残りのような気がするのだが。
その一方で、60代になると、夜の闇のなかで心を浸すような時間に耐えられなくなった。
今日が終わったのなら、思いきって灯りを消す。
ポツンと闇に囲まれたら、何も考えずに眠ってしまう。それが一番になった。
昨日は海に出かけた。
波打ち際に近い浜辺。
携帯を覗き込む母の傍らで、とても幼い男の子が走り込んでいる。それは何やら床体操の動きに似ていた。まだ歩き始めて間もないほどの幼さに、まるで不似合いなその集中力と気迫。
助走をして、両手を砂の上について、でんぐり返しを試みる。
逆立ちに終わる時もあるが、数回に1回は倒立前転の形となる。倦むことなく、黙々と幼い子は助走し、ぷよぷよした腕ででんぐり返る。
それに比べ、私は何をしているというのか。
小さな貝を拾い、カメラにおさめる。
何かに夢中になりたい…。
蝶の形
砂丘と海
”ふりむかないで…前を向いて きっとね 幸せつかみましょう…”
子どもの頃、お気に入りだったTV番組のことを、今でも懐かしく思い出すことがある。たとえば、「シャボン玉ホリデー」。「拳銃無宿」。
大人になって、時にピーナッツの歌を口ずさむ。クレージー・キャッツのコントが眼に浮かぶ。
スティーヴ・マックィーンにいたっては、今でも胸がうずくのだし、『ブリット』で着ていたジャケットの茶色とセーターの紺色は、私にとって憧れの配色のままだ。
そのような私が60代としての毎日を過ごすなかで、逆玉手箱のようなTVドラマに出会い、昨夜、その最終回を見た。はからずも涙を流した。
”ふりむかないで”の歌声は、少女だった頃に聴いたものとはまったく別の意味を伝える。幸せはつかまえるものでなかったのだし、少女は永遠に少女ではあり得なかったのだ。
それにしても、このTVドラマの脚本家は、明治時代、そして昭和の1960年代、1970年代という時代から、あの空気感をなぜ抽出したのだろう。
才能は他者を幸せにする。人は幸せをつかまえるのではなく、つかまえられるのだと思う。