enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2016.8.6

 8月という特別な季節がめぐってきた。
 日本の8月のじりじりとした青空には”太平洋戦争”の傷跡が隠れている。降りしきる蝉時雨には静かな悼みのようなものが隠れている。そう感じるようになったのは、いつからだったろう。
 さらに、この数年間、『”戦前”という時代の流れは、このような空気感から生まれていったのだろうか…』という、漠とした不安まで加わるようになった。とにかく、8月は、戦争という傷跡を感じながら越えなくてはならない特別な季節だ。

 5日、上野に出かけた。長浜の仏さまたちを訪ねようと思いながら、ずっと先延ばしにして期間ぎりぎりになっていた。
 上野の森には、軽やかな夏の風が吹いていた。会場は、ひどく混んでいるわけでもなく、自由に行き来することができた。長浜の里人たちに守られ、祈りをささげられてきた仏さまたちは、見知らぬ人々を次々と迎えて、微笑んでいたり、黙していたり、耳を澄ませていたり、見抜くようだったりしていた。
 何時間か、仏さまたちの間をめぐっているうちに、目や心が動き回りすぎたのだろうか、頭も体もだいぶ重苦しくなっていった。仏さまたちをあとにして、会場を出る。
 会場の大きな窓を背にしたテラスがあり、薬を飲むのにちょうど良い椅子が空いていた。校内の大きな木を眺めながら、ずいぶんと長い時間休むことになった。空から覆いかぶさるような緑、蝉の声、木漏れ日、やさしい風。久しぶりの上野の森で、疲れ、そして、安らかなひとときを過ごした。

イメージ 1
テラスの前の大きな木…老木なのだろう、あちらこちら、傷みが出ているようで、親近感を覚える姿。

イメージ 2
校内入口に掲げられた大きな看板…上野の森を背にした巨大な仏さまは、黒田観音寺のなかで撮影された「伝千手観音立像」の姿だろうか。会場でこの仏さまの視線と出合って、思いがけずたじろいだ。向かって右端から見上げていた私の眼と、仏さまの右眼…私に近い左眼ではなく右眼…が、出合ったからだ。何度も見直した。それでも、仏さまの見抜くような右眼の視線が私へと向けられていた。見透かされた…と思った。