enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

白いターバンの少女

 まだ夏と秋がせめぎあっている。
 昨夕、買い物の前に、図書館に本を返しに行った。
(借りておきながら、ベッドの枕元に置いたまま、ほとんど読まずに返すことになった。いつも疚しい…。)

 5時を過ぎても空はまだ充分に青い。
 街を通り抜ける風には、涼しさと熱っぽさが別々に同居している。それぞれの温度が混じり合っていない、溶け合っていない。
 海の中と同じように、風の中にも、混じり合わない潮流のようなものがあるのだろうか。涼しく、蒸し暑い不思議な風だ。

 夜、TVの前に張り付く。毎週、欠かさずに見ているドラマが始まるのだ。
 ヒロインはアルバイトで看護助手の仕事に取り組む高校生。 
 看護助手の仕事のなかで彼女は白衣を着て、ターバンのような白い帽子(布)をかぶっている。
 その姿がなぜか、フェルメールが描いた「青いターバンの少女」と重なってしまう。絵画のなかの少女とは、顔かたちも表情も、服装もその色合いも、全く異なるのに。
 あえて共通するところといえば、どちらも10代後半の少女であること、そして、その少女の額の上には帯状の布が巻かれ、髪が隠されていること…それだけだ。それでも毎回、”少女”の内面のゆらめきを覆うような帯状の布の効果に心を奪われる。隠すことで顕れるものに惹きつけられる。 
 また、ドラマの舞台の産院は、湘南のような海と陽光を背景に立地している。生まれる命の明るさも暗さも、その海から生まれ、海に返されてゆくように感じられる。命の重い揺らぎすらも淡々と受けとめてもらえるような救いがある。

 こうして、毎回、少女を取り巻く物語に心を奪われ、救われる。こうしたドラマを見ることも、いつもの暮らしのなかのささやかな喜びの一つだ。

9月7日の夕方の空(図書館の前で)
イメージ 1