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私の第三十四夜をつづります。

バンテアイ・チュマールの”千手観音像(レリーフ)”②

 バンテアイ・チュマールの建立年代は「13世紀初め」とされている(『アンコール・ワットへの道 クメール人が築いた世界遺産石澤良昭・内山澄夫 2009年)
 バンテアイ・チュマールという呼称…ガイドのマノンさんの説明によれば、”チュマール”は”猫”・”門番”という意味らしい。
 ”バンテアイ”という語については、バンテアイ・スレイが”女の砦”と訳されているので、バンテアイ・チュマールは”猫の砦”ということになるのだろうか? 
 それとも、カンボジア北東部に位置し、タイ国境まで約20kmという立地を考えれば、”門番の(居る)城砦”というほうがふさわしいだろうか?
 その建立年代の「13世紀初め」という時期は、ジャヤヴァルマン7世の治世(1181~1220年頃)におさまる。
 アンコール・トム(1181年造営開始~13世紀初め完成)と同じように、バンテアイ・チュマールもジャヤヴァルマン7世によって建設された仏教寺院なのだという(彼の息子の死を弔うための寺院、との説明だった)。

 ヒンドゥー教寺院のバンテアイ・スレイが建立された967年頃、また、仏教寺院のバンテアイ・チュマールが建立された13世紀初めという時代、日本ではどのような文化が存在したのだろう?
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 【967年頃】
 10世紀第3四半期:『蜻蛉日記』で記述されている時期
 【13世紀初め頃】
 1202年、栄西建仁寺を開く
 1206年、明恵高山寺を開く
 1212年、鴨長明方丈記
 1216年、最晩年の運慶、大威徳明王像(称名寺光明院に現存)を制作
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 日本史の年表から大まかに拾い出した事項と、バンテアイ・スレイやバンテアイ・チュマールで見た造形群とを、無理やりに比べ、共通項を探してみる。
 共通するのは…”宗教性”?
 私たちが生きる現代の文化の底流に、”宗教性”というものが脈打ち続けているかどうかは知らない。
 しかし、これらの時代のカンボジアや日本においては、人々のど真ん中を”宗教”という流れが貫流し、それは社会を突き動かす大きなエネルギーであったのだろうと想像する。
 だからこそ、現代においては”世界遺産”なのだろう。
 すでに”遺産”としてしか残されていない…かつて存在した大きな潮流の痕跡だ。

イメージ 1
”千手観音像”のレリーフ(2):
左右16本ずつの腕が放射状に(モーション・ショットのように)展開されている多臂(たひ)の像。
最前面以外の手に持物は無い。それでは、その30本もの腕は何のために?

イメージ 2
”千手観音像”のレリーフ(2)-掌上の仏様:
最前面で広げられた右腕の掌上に、仏様(おそらく多臂の?)を載せている。
その他の手は、人差し指だけを伸ばす形で握られている。何を指差すのだろうか? 
また、最前面の左腕の手は何か(小さな壷?)を握っている。
これらの図像が意味するところを、私は読み解くことができないのだけれど。

イメージ 3
”千手観音像”のレリーフ(2)‐消えてゆく微笑:
正面の顔の向かって右には少なくとも二つ(おそらく三つ?)の横顔が表出されているので、多面(5面以上)の仏像のようだ。額の中央に”第三の眼”が刻まれているのかどうかは確かめられない。