先日から、『楽に寄す』の旋律が、くりかえし頭のなかに流れるようになった。
(とあるTVドラマの最後のシーンで、その歌曲が流れてからだった。そのソプラノの古風な歌唱は、私のくすんだ心を洗い流すように、台所や街の歩道で、ふと再生されるようになった。シューベルトの歌曲とは、そんなふうに清らかな流れのように、日常のなかに時折あらわれるのだ。)
ドラマに使われたその古風な歌唱が誰のものかは分からなかったけれど、私が思いつくのはシュヴァルツコップしかなく、彼女の『楽に寄す』の動画を視聴した。
その動画はシュヴァルツコップのモノクロ画像から始まった。彼女の輝かしさは、モノクロ写真においていや増しているように思えた。
そして、銅版画や多くの仏像写真なども、なぜ、色彩を失いながら、色彩以上の美しさを物語るのだろう…と不思議に感じないではいられなかった。
そうだ、私のカメラでも確かモノクロ写真が撮れるはず…と思った。
蜂窩織炎で赤く腫れた腕首はまだ熱をもってはいたけれど、さっそくカメラを持って外に出てみることにした。
6月の花を撮ろう。モノクロの美しさを教えてくれる花を撮ろう。
クチナシはその香りを出し惜しみしていた。
紫陽花は今を盛りと華やいでいた。
ザクロは生き急いでいるようだった。
薔薇は最後の力を凝縮して咲いていた。
最後は、海岸近くの松林で…親スズメからまだエサをもらっているおチビさんを撮った。
夜になって、家族がMDディスクを1枚持って「こんなのがあった」と食卓の上に置いていった。ラベルには「シューベルト歌曲集 エリーザベト・シュヴァルツコップ」とあった。