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私の第三十四夜をつづります。

京~走湯権現~相模を結ぶもの

 今年の春、歌人相模についてあれこれと考えていた。そのなかで伊豆山神社に残る同時代の神像を知った。そして漠然と、その神像が相模国の11世紀代の歴史の動きと係りそうな気がした。12世紀の源頼朝よりさかのぼって、源頼義の時代に相模国伊豆山神社との間に、何かしらの政治的な接点があれば、歌人相模の走湯百首が文学世界とは別の側面を見せてくれるのではないか、と期待したからだった。
 走湯百首に登場する権現僧とは誰なのか。歌人相模への返歌を詠んだのは誰なのか。あの写実的な神像を奉納したのは誰なのか。歌人相模、権現僧の返歌が行き来した実際の道はどのようなルートなのか。この春に生まれた問いかけの答えは何一つ見つかっていない。
 うろうろと夏を過ごし、10月に入ってささやかな糸口が二つあった。一つは、源頼義の義理の弟(?)に”阿多見(美)聖範”という僧がいること。もう一つは、歌人相模と源頼義は(遠い?)義理の従兄妹にあたること。
 まず、平直方の子”阿多見聖範”について、”禅師・権律師”とされる彼と熱海(伊豆山神社)との係わりが想定できるならば、京都~熱海(伊豆山)~平塚・鎌倉の道がつながり、歌人相模との接点も出てくるかもしれないと感じた(頼義が平直方の娘を妻にしたあとならば、歌人相模は”阿多見聖範”ともつながりが出てくることになる)。
 そして、”阿多見聖範”の生年を父・平直方の生没年(969~1053年)から雑駁に推定すると(いつもの通り、都合よくなりがちなのだが)、およそ995年前後になるだろうか。歌人相模の推定生年(992年? 998年?)とも近い。さらに飛躍して、”阿多見聖範”が1020年代の走湯権現僧である可能性があるならば、彼が歌人相模の奉納百首への返歌の作者であったか、または歌人相模の夫・大江公資の協力者であったことも想定される。仮定の上の仮定…まったくの妄想ではあるが、”阿多見聖範”の出自からは、”歌人相模に返歌する権現僧”、もしくは”相模国司夫妻の歌のやり取りの仲介役を務める権現僧”というイメージを結ぶことができそうだ。
 また、源頼光を義父とする歌人相模について、最近になって「頼義と頼清 ―河内源氏の分岐点―」(元木泰雄 2012年 『立命館文學』第624号』)を読み、ようやく歌人相模と源頼義とは義理の従兄妹にあたるのだと認識できた。そして平直方相模国司大江公資(?~1040年)とは、京か相模国内で接点があったのではないだろうかとも思った。
 二つの糸口から無理筋を重ねての妄想に過ぎないが、11世紀の相模国において、東伊豆~平塚~鎌倉の道が相模湾の海岸線沿いにかすかにつながったような気がした。そして、伊豆山神社のあの長身の神像の奉納者は誰なのか、なぜあの像容なのか…特異な神像が発した謎かけはずっと続いている。