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私の第三十四夜をつづります。

相模国庁の復元プラン

 今週は月曜から相模国庁の配置プランを作る作業に没頭した。
 かながわ考古学財団の報告書、石岡市教委による常陸国衙跡の報告書、奈良文研の『古代の官衙遺跡』などを机一面に広げる。
 実際に検出された遺構は限られている。東脇殿跡、西脇殿跡の一部、掘立柱塀の一部。これでほとんどすべてと言える(正殿が出ていないことが最大の課題なのだけれど、出ていないからこその”考える楽しみ”なのだろう)。
 セクション・ペーパーの上に平面プランを描くために、区画や建物の規模を計算する。簡単でも計算は至極苦手だ。でも楽しい。今まで見たことのない相模国庁プランがしだいに姿をあらわしてくる。
 火曜・水曜は、平面図(縮尺500分の1)と表を、A3判1枚にまとめてみた。図版などは、ソフトを使いこなす技術があれば、鉛筆や消しゴムも使わずに済むのだろう。アナログな私の机の上は、折れた鉛筆の芯、消しゴムのかすだらけになった。
 一連の作業のなかで一番楽しかったのは、やはり未検出の正殿・南方脇殿(報告書にははっきりとは記されてはいないが、西脇殿の南にもう1棟の脇殿が縦列している可能性がうかがえそうだ)・門などの規模を想定することだった。
 非瓦葺の正殿の荘厳さを出そうと、欲張って7間・2間の四面庇の建物としてみた。これでも、都城のものと見まごうような華麗な復元模型よりはずっと控えめだと思う。東国の国庁らしさを想定することこそ、私のプランのコンセプトなのだから(果たして”東国らしさ” とは何か、がまだ明確ではないのが問題だが)。
 何とか絞り出したプランを1500分の1の地図上に落とし、これまでの調査範囲や地形上の制約と矛盾しないかを確かめてみる。やはり、正殿跡の位置が最も気になるところだ。ほぼ特定することが可能なのだから。
 想定した八脚門の位置は、現在は個人住宅となっていて、南の東西道路にもわずかに掛かっている。道路を開ける工事があって柱穴が出ることも?・・・なと妄想する楽しみも増えた。
 そして、報告書を見ているだけでは気づかなかった点もあぶり出された。
 このプランを12月に勉強仲間に検討してもらい、意見をもらうのが次の楽しみとなる。私の不勉強のホコリが続出して、却下される恐れもあるけれど。