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私の第三十四夜をつづります。

12世紀の中村氏-”乳母の力”

 昨年春、歌人相模が相模国国司館(もしくは別邸か?)から伊豆山の走湯権現へと通った道について不毛な(今思えば…)想像をめぐらしていた。
 そして一年後の今、平塚市の12世紀の不動明王立像を調べるなかで、当時の中村氏について関心を持った。そして、源義朝と中村氏の係わりを考えるために、『乳母の力』(田端泰子 吉川弘文館)を拾い読みしながら、再び、当時の熱海・湯河原~小田原・大磯・平塚~鎌倉一帯を机上で行きつ戻りつしている。 
(そのなかで、昨春は、11世紀前半の歌人相模の「我せこか くはるひさなへ おきながら しろきや たこのもすそなるらむ」〔走湯百首歌群 ”早夏”の部〕中の”田子”の語と、13世紀前半の”田子”〔小田原市内で狩川が酒匂川と合流する”多古”の地域が該当するか?〕とを強引に結びつけて空想していたことを思い出した。もはや、11世紀前半の大江公資の早川牧と、2世紀ほど後れる田子一得名との連続性を考え続けてはいないけれど、懲りることなく、今度は不動明王像造立の背景として、中村氏と”乳母の力”について空想している。)
 田端氏の『乳母の力』では、義朝の乳母として”摩々局”、頼朝の四人の乳母として”摩々尼”・”山内尼”・”寒川尼”・”比企尼”があげられている。そのなかで中村氏と係る可能性があるのは”摩々局”・”摩々尼”・”山内尼”だろうか、と読み進めた。
 そして、田端氏の結論にほぼ納得がいった。つまり、”摩々局”・”摩々尼”は母娘ではないか、という想定。そして、”山内尼”(山内首藤経俊の母)は”摩々局中村氏”ではない(”摩々局”と”山内尼”とは別人物)との立場だ。つまり、三人の乳母はそれぞれ別に存在したことになる。
 ただ、それでは義朝・頼朝の乳母として中村氏と係る女性がいたとすれば、それは誰なのか?との問題が残る。
 今のところ、その乳母を中村氏の血縁者とするのではなく、都における”摩々局”と義朝、”摩々尼”と頼朝という乳母と養君との関係の延長線上に、新たに、相模国早川庄で”摩々局”・”摩々尼”と中村氏(中村宗平?)との間に何らかの密接な係わりが発生したのではないか、と想定している。
(それぞれの年齢を推定すれば、”摩々尼”が12世紀中葉以降、中村宗平と婚姻に近いような関係であった可能性を考えられないだろうか? さらには、この乳母〔”摩々局”・”摩々尼”〕と養君〔義朝・頼朝〕との関係に、相模国の中村氏が係ることで、12世紀中葉、国府は平塚の砂丘上から余綾府へと移遷したのではないか?と、気ままな想像をめぐらしている。)
 
【追記】
 ”まま”という語については、『枕草子』に「僧都の御乳母のままなど・・・」の用例があるようだ。12世紀においても、”まま”という語は”乳母”一般の呼び名だったのかもしれないと感じた。
 ”摩々局”・”摩々尼”は、”山内尼”(山内首藤俊通の妻)・”寒川尼”(小山政光の妻)・”比企尼”(比企能員の叔母)の場合と違って、1180年代~1190年代には確固とした後ろ盾を持たずに早川庄で暮らしていたのではないか、とも想像している。