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私の第三十四夜をつづります。

『古代豪族』(青木和夫)の語り

 読み続けている『古代豪族』の文章は、今の私に生き生きと語りかけてくる。著者の知識・研究の蓄積を糧にした思索の足跡を、それは楽しそうに語りかけてくる。その学問上の評価を、歴史に素人の私など知るべくもないが、私がもう一度人生を生き直し、この著者のように歴史を学ぶことができたら・・・と羨ましく感じないではいられない。
 昨夜は吉備真備和気清麻呂が生きた時代、その人物像についての話だった(眠る前に本を取り上げれば、『絵のない絵本』の月が窓辺に訪れるように、私が持ち得ない著者の個としての視点が私を励ましてくれるのだ)。
 昨夜読んだ章の終盤では、真備と清麻呂について、いかにもざっくりと総括されてこう書かれていた。
 「郡司級豪族の当主は有能な経営者でないと家が没落する。清麻呂は誠実で謙虚というおおかたの定評の基礎に、先祖伝来の経営実務の能力をそなえていた。さもなければ民部卿や造宮大夫に任命されて、平安遷都に貢献したといわれるわけがない。これが同じ実務家でも吉備真備と違う点である。真備のそれは官僚機構のなかでの能力であり、清麻呂のは豪族としてのそれである。戦術家と戦略家のちがいといっては清麻呂をほめすぎることになる。人に対する温かさ、思いやり、理屈以外のなにかを示すかどうかだ。」
 著者は奈良時代の人物のタイプを、あたかも現代社会のリーダーを描くごとく色分けしている。この引き寄せ方は著者の個性なのだろう。
 私にとって古代豪族としての郡司と言えば、9世紀中葉の相模国大住郡大領、壬生直広主であるが、その人物像をこのように身近な知人のごとくスケッチできたら楽しいだろうと思う。全くの素人の勘(違い?)だが、壬生直広主は清麻呂タイプではないだろうか…そんなふうに想像した。