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私の第三十四夜をつづります。

星形鋲と淳和院出土の飾り釘

 坪ノ内遺跡第5地点出土の銅製頭部星形鋲はSB01から2点、P09から1点、遺構外から1点出土している。報告書では「華奢な作りで、飾り金具としての使用が適していると思われる。(中略)厨子のような建具の存在を想起させるものである。」とされている。
 この星形鋲に似た金具を探してみた。奈良と京都での二例があった。
 一つは正倉院宝物「黒柿両面厨子」に使われている金銅製の星形鋲。この星形鋲の頭部は(写真で見る限り)、その名の通りに星形をして金色に輝くのに対し、坪ノ内遺跡第5地点のものは、むしろヒルガオの花の形をして、やや地味な趣きと言えそうだ。
 
(追記:正倉院の「黒柿両面厨子」を、後日、より大きな写真で確認したところ、その星形鋲も坪ノ内遺跡のものと同じようにヒルガオの花の形をしていた。また、同じくSB01出土の金銅製装飾金具は、「黒柿両面厨子」の観音開きの扉のつまみ〔把手〕金具とも似ていた。坪ノ内遺跡の金銅製装飾具が、もし正倉院厨子と同様に、扉の把手金具であったならば、星形鋲に比べやや小ぶりなので、厨子本体も、正倉院のものより小さいのかもしれない。「黒柿両面厨子」は書籍や楽器などを入れる厨子の一つのようだ。坪ノ内遺跡のSB01の機能として、総柱の倉を想定したが、住まいであった可能性も考えられそうだ。)
 
 もう一つの類似例は、淳和院跡から出土している銅製飾り釘だ。こちらは笠(頭部)が五角形(ヒルガオ形)ではなく六角形であり、「笠の表面を削り整形した後、漆で下地をつくり金箔を施した釘」(吉川義彦「淳和院と陶磁器類」『平安京と貴族の住まい』京都大学学術出版会2012)という違いも見られる。それでも、淳和院跡の銅製装飾金具と坪ノ内遺跡第5地点の星形鋲は、その大きさ・長さや断面形がとてもよく似ている。
 相模国府域では、鍛冶遺構やその遺物から、工房・工人の生産活動が活発だったことが明らかにされている。銅滓や銅塊も出土しており、坪ノ内遺跡第5地点の銅製星形鋲が、必ずしも都城から持ち込まれた調度品を飾っていた部品であるとは限らず、国府域内で製造されたものであるのかもしれない。
 ただ、坪ノ内遺跡第5地点のSB01の建物規模や、緑釉陶器や金銅製品の出土、さらには9世紀中葉以降の嵯峨源氏仁明源氏の連続的な相模国司補任という背景を考えると、この遺跡に中央貴族との係わり、少なくとも中央と強い繋がりをもつ有力者との係わりを想定することは自然であるように思う。
 果たして、坪ノ内遺跡第5地点は国府域でどのような機能を担っていたのだろうか。現時点で漠然とイメージするのは、9世紀中葉以降の国司館に付随する倉ではなかったか、というものだ。
 8世紀中葉に成立し、9世紀前後に廃絶した可能性のある相模国庁。その後、まもなく国府域にもたらされ始めた大量の緑釉陶器。源融相模国司補任を契機とするかのように連綿と連なる嵯峨源氏仁明源氏相模国司たち。そしてその同時代に活発な動きを見せた大住郡大領壬生直広主。
 それらの9世紀の政治・経済の流れに巻き込まれるように、この坪ノ内遺跡第5地点が在るように感じられるのだ。
イメージ 1
   坪ノ内遺跡第5地点出土の金銅製装飾金具品と頭部星形鋲
追記:今、坪ノ内遺跡の星形鋲に金色の輝きは無い。もし、金銅製装飾金具と星形鋲が、同じ厨子のつまみ把手と飾り金具であったとすると、この星形鋲は、金銅製と銅製が交互に使われている(ように見える)「黒柿両面厨子」と同様に、使われた金銅製と銅製の星形鋲のうち、銅製のものだけが残ったか、もしくはすべて銅製だった、ということになるのかもしれない。ただ、星形鋲がすべて銅製であったならば、金銅製のつまみ把手とはやや不釣合いかもしれない。