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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言12 和泉式部集のなかの相模

 『和泉式部集全釈 [正集篇] 』(佐伯梅友 村上治 小松登美 笠間書院 2012年)において、和泉式部が相模や大江公資とやり取りした歌とされているものを引用させていただく。
 
 471  我が宿を 人に見せばや 春は梅 夏は常夏 秋は秋萩
        これを見て、一品の宮の相模
 472  春の梅 夏のなでしこ 秋の萩 きくの残りの冬ぞ知らるる
 
 
        同じ頃、相模が妻(め)のもとより、おばのもとに
 482  親をおきて子に別れけむ悲しびの中をば いかが 君も見るらむ
        返し
 483  親のため人の喪事は悲しきを なぞか別れをよそに聞きけむ
 
        
       公資が妻(め)ともろともに来て、枕乞へば、出だしたるに、返すとて、書き付けて返したる
 522  たびごとにかるもうるさし 草枕 手枕ならば返さざらまし 
        返し
 533  草枕 その結びめのたよりには 千たびも千たび貸さむとぞ思ふ
 
        
        柏野(かしわの)より、何とかや、相模へ遣るとて        
 582  睡(い)をだにも安く寝させで 荻風の吹きおとしたる柏野の露 
 
 相模の歌とされる472・482、大江公資の歌とされる522を知ったことで、相模と大江公資の市井の人としての一面が見えたような気がした。交わされた歌の跡から、相模・大江公資と和泉式部との親類づきあいそのままのような親しい間柄、また、小式部内侍に先立たれた和泉式部の悲しみを相模が思いやる姿などが垣間見えてくる。
 なお、482の相模の歌について、『和泉式部集全釈』の通釈は「小式部さまは、親のあなたをこの世におき、又幼いお子さま方にも別れて死んでゆかれたさうですが、さうした悲しみは私にも経験がありますので、今あなたがどんな思ひでいらっしゃる事かと、同情に堪へません。」となっている。
 私は、482を歌の約束事を離れたお悔みの文のように読み取り、そこに「さうした悲しみは私にも経験がありますので」という思いが隠されているとは感じられなかった。あれほどに子を願った相模だからこそのものだろうと。
 しかし、もしそのような意味合いがある歌であるならば、相模自身も子に先立たれた経験があるのだろうかと気になった(少なくとも、『相模集』を眺める限り、相模自身が実子を持ち、失ったというような重い経験を歌ったものはないように思うのだけれど)。