471 我が宿を 人に見せばや 春は梅 夏は常夏 秋は秋萩
これを見て、一品の宮の相模
472 春の梅 夏のなでしこ 秋の萩 きくの残りの冬ぞ知らるる
同じ頃、相模が妻(め)のもとより、おばのもとに
482 親をおきて子に別れけむ悲しびの中をば いかが 君も見るらむ
返し
483 親のため人の喪事は悲しきを なぞか別れをよそに聞きけむ
公資が妻(め)ともろともに来て、枕乞へば、出だしたるに、返すとて、書き付けて返したる
522 たびごとにかるもうるさし 草枕 手枕ならば返さざらまし
返し
533 草枕 その結びめのたよりには 千たびも千たび貸さむとぞ思ふ
柏野(かしわの)より、何とかや、相模へ遣るとて
582 睡(い)をだにも安く寝させで 荻風の吹きおとしたる柏野の露
相模の歌とされる472・482、大江公資の歌とされる522を知ったことで、相模と大江公資の市井の人としての一面が見えたような気がした。交わされた歌の跡から、相模・大江公資と和泉式部との親類づきあいそのままのような親しい間柄、また、小式部内侍に先立たれた和泉式部の悲しみを相模が思いやる姿などが垣間見えてくる。
なお、482の相模の歌について、『和泉式部集全釈』の通釈は「小式部さまは、親のあなたをこの世におき、又幼いお子さま方にも別れて死んでゆかれたさうですが、さうした悲しみは私にも経験がありますので、今あなたがどんな思ひでいらっしゃる事かと、同情に堪へません。」となっている。
私は、482を歌の約束事を離れたお悔みの文のように読み取り、そこに「さうした悲しみは私にも経験がありますので」という思いが隠されているとは感じられなかった。あれほどに子を願った相模だからこそのものだろうと。
しかし、もしそのような意味合いがある歌であるならば、相模自身も子に先立たれた経験があるのだろうかと気になった(少なくとも、『相模集』を眺める限り、相模自身が実子を持ち、失ったというような重い経験を歌ったものはないように思うのだけれど)。