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私の第三十四夜をつづります。

なぜ相模国府、相模国司だったのか?

 30日は、私にとって今夏唯一の”夏休みらしい一日”だった。
 小さな会場で、ずっと楽しみにしてきた『平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模へもたらされたのか~』(尾野善裕氏)の講演を、じっくりと聴くことができたから。
 講演に対して私が漠然と思い描いていたイメージは、専門的・限定的なテーマであるだけに、市民向けの、穏やかな、より概説的な講演になるのでは?というものだった。
 その予想に反し、尾野氏の講演は、圧倒的に”熱血漢”的な講演だった。研究者の熱い論旨が、機関銃のような速さで発射される言葉で語られ続けた。
 全ての発表を聞き終えて、夕方、会場を出た。
 帰り道、出席していた友人と、その講演について言葉を交わした。
 友人は「・・・でも、なぜ、相模国だったのかが分からない・・・」と言う。
 「・・・それは、たぶん・・・緑釉陶器が、東国では、都に近い西日本の国々より、威信財としての価値が高くて需要が大きかっただろうから・・・有効な販路としての東国?・・・」
 友人の問いは続く。「でも、東国でも、それがなぜ相模国相模国司だったのか・・・」
 「・・・尾張国からは、まず相模国が東国の入り口だったこと・・・相模国府の立地条件・・・相模川の河川交通が利用できたこと・・・武蔵国陸奥国へ販路ルートの入り口として相模国が選ばれた?・・・」
 友人は納得しないようだった。
 私も、自分では分かっていたようなつもりだったけれど、いざ真正面から問われると、一気に自信がなくなる。
 やはり地理的立地や市場原理のほかに、9世紀後半という時代に、都城尾張国相模国の間に、尾張産緑釉陶器を廻る人的ネットワークが張り巡らされていたのだろう。
 そして、その人的ネットワークを考古資料から明らかにすることはむずかしい。果たして、尾張産緑釉陶器の集中的な移出先が相模国府となったことの”きっかけ”は、841年の源 融の相模国司補任だったのだろうか。そうした偶然の積み重ねもあって、いつしか尾張産緑釉陶器ネットワークが形作られていったのだろうか。
 友人の明快な問いかけによって、自分が何が分からないか、について、改めて気付かされたように感じた。分からないから面白い・・・でも分かりたいと思う。