30日は、私にとって今夏唯一の”夏休みらしい一日”だった。
小さな会場で、ずっと楽しみにしてきた『平塚市出土緑釉陶器の歴史的背景~なぜ大量の緑釉陶器が古代相模へもたらされたのか~』(尾野善裕氏)の講演を、じっくりと聴くことができたから。
講演に対して私が漠然と思い描いていたイメージは、専門的・限定的なテーマであるだけに、市民向けの、穏やかな、より概説的な講演になるのでは?というものだった。
その予想に反し、尾野氏の講演は、圧倒的に”熱血漢”的な講演だった。研究者の熱い論旨が、機関銃のような速さで発射される言葉で語られ続けた。
全ての発表を聞き終えて、夕方、会場を出た。
帰り道、出席していた友人と、その講演について言葉を交わした。
友人は「・・・でも、なぜ、相模国だったのかが分からない・・・」と言う。
「・・・それは、たぶん・・・緑釉陶器が、東国では、都に近い西日本の国々より、威信財としての価値が高くて需要が大きかっただろうから・・・有効な販路としての東国?・・・」
友人は納得しないようだった。
私も、自分では分かっていたようなつもりだったけれど、いざ真正面から問われると、一気に自信がなくなる。
そして、その人的ネットワークを考古資料から明らかにすることはむずかしい。果たして、尾張産緑釉陶器の集中的な移出先が相模国府となったことの”きっかけ”は、841年の源 融の相模国司補任だったのだろうか。そうした偶然の積み重ねもあって、いつしか尾張産緑釉陶器ネットワークが形作られていったのだろうか。
友人の明快な問いかけによって、自分が何が分からないか、について、改めて気付かされたように感じた。分からないから面白い・・・でも分かりたいと思う。