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私の第三十四夜をつづります。

歌人相模の初瀬参詣ルート(4)

 
歌人相模の初瀬参詣ルートについては、往路・復路を組み合わせて、何種類かのルートを想定できることがわかった。ただ、参詣ルートを推定する材料とした初瀬参詣七首(104110)のうち、「竹淵」(110)の地点が定まらないため、一つのルートに絞り込むことは現時点では難しいようだ。
しかし、そもそも初瀬参詣ルートを推定する目的は、歌人相模が淀川を渡河した可能性を探るためだった。その意味で、淀川渡河の可能性が成り立つルートについて、一つにまとめ直してみると、およそ次のようなものになると思う。
 
まず往路は、「稲荷山」(104)参詣を経て “久我畷”を南西に進み、淀津を過ぎて山崎津に至り、山崎橋で淀川を渡河したのち、男山西麓~生駒山西麓をまっすぐ南下し、信貴山南麓で龍田道を東に越え、大和川右岸を「あとむら」(105)・「すがたの池」(106)と辿り、「よしみねの寺」・「ふるの社」(107)に参詣して、「鍋倉山」・「(初瀬の)坊」(109)に至る
〔往路では「楢のやしろ」(108)に立ち寄らなかったものと解釈する。〕
 
そして復路は、初瀬から往路を逆に辿って「楢のやしろ」(108)に立ち寄り…実際には復路の途中で詠んだ「楢のやしろ」(108)の歌を、歌集としてまとめる際には、往路での106107の歌に続けてまとめて配列したと解釈する…、再び龍田道を西へ戻り、新たに河内国府推定地付近で北西に進路を取り直し、平野川沿いに現・八尾市の「竹淵」(110)四天王寺付近を通って、渡辺津(大渡、熊河岸、大江の岸)で乗船し、淀川を遡上して、山崎津で再び男山西麓の「竹淵」(110)を望む、ということになる。
〔この復路では、「竹淵」(110)が、現・八尾市の「竹淵」なのか、現・八幡市(男山西麓)なのかは不明。また、初瀬から河内国府推定地へ向かう最短ルート(これに該当する「葛下斜向道」というものが、11世紀でも使用されていたのかどうかは不明)を採った場合は、「楢のやしろ」(108)は往路で詠んだ歌と解釈することになる…配列が乱れることになるが…。〕
 
なお、この往路ルート(淀川渡河)を補強する材料にはならないが、大中臣能宣921991)の歌に次のものがあった。「たつたがは」と“初瀬参詣”が結びつく一例として、参考にした。
 
やまとなるてらをみるに、たつたがはのもとに とまりてやすむ
105  夏ごろも たつたのかはを きてみれば 風こそなみの あやはおりけれ
 
   おなじ日、はつせにまゐるに、しりたる女の、おくれて のにやすむところに やる
106  なつののの くさしたかくれ をみなへし いろにいでねど しるくもあるかな
      かへし
107  うちつけに しりがほなせそ あだしのの 人もむすばぬ くさにやはあらぬ
                                         (『新編国歌大観』「能宣集」から) 
これらの歌のやりとりから、大中臣能宣が初瀬参詣の前に「たつたがはのもと」で宿泊したことがわかる。大中臣能宣も、京から龍田越で大和国に入り、「たつたがはのもと」に泊まり、「たつたのかは」を眺めたのだろうか、と想像をたくましくした。
〔一方で、大中臣能宣が、一般的な宇治川・木津川ルートを採って初瀬に向かう途中、“斑鳩”あたりの寺を見ようと「たつたがはのもと」(現・大和川のもと)に泊まった可能性も考えられる。当時、歌に詠まれた「たつたがは」は、現・大和川のどのあたりまでを指すのだろうか。〕