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私の第三十四夜をつづります。

“三宮相模君”①


『雲居寺結縁経後宴歌合』(『新編国歌大観』から) 
五番 露 左勝                    三宮相模君

ゆふされば をばなおしなみ ふくかぜに たまぬき みだる のべのしらつゆ

 
秋の野辺。夕風が尾花に吹き寄せて、白く輝く露の連なりを乱し散らしてゆく。
判者 藤原基俊は、三宮相模君の歌について、「すこしふるめきたるやうに侍れど、させる難とすべきところなし」と評している。そして、素人の私も、12世紀初頭の判者とほとんど同じような印象をもった。
秋の野辺の広がりから、夕刻の斜めの光に浮かび上がる白露へと、風の動きにそって視線がなめらかに移ってゆく。熟練したさりげなさ、そつのなさに、どこか物足りなさを感じてしまうような歌。
不思議に思う。すでに、12世紀初頭の藤原基俊において、こうした三宮相模君の歌が“古めかしいもの”として受けとめられていることに。(21世紀初頭の私が感じる“古めかしさ”と、12世紀初頭の判者が感じた“古めかしさ”とが、はたして同質のものなのかどうか、分からない。また、“ふるめきたるやう”の言葉に、評価のニュアンスがまったくないともいえないようにも感じる。“古めかしい”けれど捨てがたい…というような。)
私は、和歌の世界が、時代とともにどのように移り変わってきたのかを知らない。ただ、この“ふるめきたるやうな”三宮相模君の歌に、人生に対する静かな諦めの気配などを感じる。(思い入れが過ぎるかもしれないけれど。)