9世紀中葉を中心とする時期(9世紀第2四半期~第3四半期)は、相模国府の大きな画期の一つである。そして、その時期は天長・承和・仁寿・天安・貞観年間、淳和・仁明・文徳・清和・陽成天皇の時代にあたり、弘仁9年(818年)と元慶2年(878年)の東国地震という大災害によって挟まれた時代でもある。
8世紀代に国庁が成立した相模国府域は、9世紀には竪穴建物数・掘立柱建物数、遺物の多様性などから、奈良時代の8世紀を上回る活況を呈していたと考えられる。その背景は何か。考える手がかりの一つとして相模国司をとりあげたい。
【注:『大磯町史』 1 資料編 古代・中世・近世(1) 第7章 相模の国司 を参考】
*仁明朝の側近の任官(橘氏など)
*同一人物の複数回の任官
*参議以上となるような高官の任官 【注:『公卿補任年表』を参考】
この50年間の相模国司たちの経歴などから、おそらく実際に赴任した国司は少なく、この時期の相模国は国守の代行者や介以下の国司、地元の有力者層などによって実質的に支配・運営されていたのではないかと考えられる。また、この時期の相模国司任官が中央貴族にとって、何かしら他国には無い経済的利権を含んでいたのではないかとも想像される。
②橘氏、嵯峨源氏・仁明源氏、あるいは藤原北家などの有力貴族に席巻された相模国司たちと、9世紀中葉の相模国府の実態との間に連動するものがあるのではないか。その連動の一つの形として、相模国府域、大住郡域(伊勢原市などを含む)で出土する緑釉陶器の多さが考えられる。そして、緑釉陶器の出土分布から、その流通に地元の有力者層が係わることも想定される。
【注:『湘南新道関連遺跡Ⅱ』 第7章 第1節-2.-(2)に、淳和院が尾張における緑釉陶器の生産に関与している、との考察がある。】