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私の第三十四夜をつづります。

「国衙」について

2012.5.15
 平塚の地で相模国府について学んできた私にとって、「国衙」の語は親しみが無い。概念の包摂関係としては、”国庁(政庁建物) < 国衙(政庁+官衙) < 国府(地域)”と捉えてきた。
 一方で、私だけの勝手な使い分け…”律令国家的な「国庁」から、在庁官人がうごめく「国衙」へ”といった時系列的な流れでの区別…もしていた。
 そして、11世紀代の相模国司大江公資が政務を執っていた場所については、「国衙」を形成する官衙の中心的な一施設として捉え、それを便宜的に「国司館」という語を充てて考えてきた。つまり、私にとっては、整然とした「国庁」像が失われたあとに立ち上がるのが、混沌とした「国衙」像だった。
 その「国衙」像も、12世紀ともなると一層曖昧模糊として、まったくイメージが結ばなくなる。つまり、余綾郡に移遷後の「国衙」のあり方がほとんど想起できないのだった。
 が先日、その12世紀以降の「国衙」像を示唆するような文章(『荘園志料』(昭和42年 角川書店)に出合った。
 
「(前略)国衙は、言ふまでもなく、王政の盛時に當りては、守介掾目、京師より交替し来りて、吏務に任じ、一国の政令、すべて此に出づ、国内是より大なる官署なく、是より貴き官人なし、然れども、王綱弛解、荘園勃興に及びては、其の管地、日に月に削減せられ、終には、一荘地ほどにもなりて、之を国衙領とも、国領とも呼び、終には国衙荘、国衙職と云ふ名さへ出て来れり、されば、国司任所に赴く要もなくなりて、僅に代官を置きて、吏務に當らしむ、其の吏務を行ふところを、留守所と云ひ、其の吏員を在庁官人と称す、吏務と云ふも、僅少なる国衙領を管して、臨時の即位大嘗会造内裏棟別段米段銭、造大神宮役夫工米等を、国中に賦課徴収するに過ぎず、仁安(注:1240~42年)中、安芸国衙の総租入、准能一千六十余石の内、国費二百余石を除きて、八百六十余石を、厳島社造営費に充てたりと云ふ、以って国衙収支の一斑を窺ふに足るべし、故に国守は荘園の本家領家にも比すべく、在庁官人は、荘司荘官の類にも似て、一国の治乱に関する大官なりと思ふべきにあらず、(後略)」
 
 この文章から想起できる「国衙」像が、相模国府のいずれかの時代にあてはまるのだろうか。現段階では、(何の根拠も無く)11世紀後半以降の時代が相当するように感じている。