2012.5.15
そして、11世紀代の相模国司大江公資が政務を執っていた場所については、「国衙」を形成する官衙の中心的な一施設として捉え、それを便宜的に「国司館」という語を充てて考えてきた。つまり、私にとっては、整然とした「国庁」像が失われたあとに立ち上がるのが、混沌とした「国衙」像だった。
「(前略)国衙は、言ふまでもなく、王政の盛時に當りては、守介掾目、京師より交替し来りて、吏務に任じ、一国の政令、すべて此に出づ、国内是より大なる官署なく、是より貴き官人なし、然れども、王綱弛解、荘園勃興に及びては、其の管地、日に月に削減せられ、終には、一荘地ほどにもなりて、之を国衙領とも、国領とも呼び、終には国衙荘、国衙職と云ふ名さへ出て来れり、されば、国司任所に赴く要もなくなりて、僅に代官を置きて、吏務に當らしむ、其の吏務を行ふところを、留守所と云ひ、其の吏員を在庁官人と称す、吏務と云ふも、僅少なる国衙領を管して、臨時の即位大嘗会造内裏棟別段米段銭、造大神宮役夫工米等を、国中に賦課徴収するに過ぎず、仁安(注:1240~42年)中、安芸国衙の総租入、准能一千六十余石の内、国費二百余石を除きて、八百六十余石を、厳島社造営費に充てたりと云ふ、以って国衙収支の一斑を窺ふに足るべし、故に国守は荘園の本家領家にも比すべく、在庁官人は、荘司荘官の類にも似て、一国の治乱に関する大官なりと思ふべきにあらず、(後略)」