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私の第三十四夜をつづります。

16世紀後半の庭園遺構

 昨日の午後、小田原に向かった。御用米曲輪の発掘調査で切石敷遺構が出たという。今年最後の現地説明会だ。
 現場に着くと、2月の説明会の様相とは一変していた。眼の前に広がる遺構はまさしく庭園だった。
 東側の遺構から西へと見学する。
 強過ぎるほどの曲線を描く下段の池。その屈曲する岸線を守るために、タイルのように並べられた貼り石。砂利を敷き詰めた州浜も、なだらかな傾斜面を顕している。2月時点では想像できなかったデザインだ。
 そして、もっと驚いたことに、池岸の水面には幅の広い大きな板材が沈んでいた。橋もしくは舟?と推定されているらしい(橋であれ、船であれ、戦国時代の小田原の地で”曲水の宴”のようなことが行われていたのだろうか?)
 さらに、その池を眼下に望む上段のへりには、南北棟の掘立柱建物が建つらしい。思わず、平城宮東院庭園の池に張り出した中央建物、平橋・反り橋の景観をイメージしてしまう(礎石建物ではないためか、掘立柱建物柱跡については”小屋”と説明されていたけれど…)。
 続く上段面には、これもまた、飛鳥京跡苑池か酒舟石遺跡のような光景が広がっていた。白い巨石と精緻な切石敷遺構。そして配色の美しい円筒形遺構(説明によれば、井戸ではないらしい)。これらの遺構と東の掘立柱建物跡との間には、やはり美しい石積みの井戸が配されている。暗渠水路の遺構も整然とした形で残っている。これらの複雑に見える造園プランは、きっと水の流れに沿って構成されているのだろう。
 担当者の方の説明を聞き終わり、これらの庭園を造り上げた16世紀後半の石工集団について思いが及んだ。自然石の色や形・大きさ、その材質を見極め、未成品や未使用品の供養塔も転用し、効率よく造園作業を進めた集団は、小田原北条氏と密接なつながりがある人々だったのだろうか。現地をあとにしながら、数百年ぶりに姿を顕したこれらの貴重な庭園遺構が、今後どのような形で整備されていくのだろうかと期待がふくらんだ。
 
曲線を描く下段の池:奥に、州浜、貼り石、掘立柱建物跡の柱穴
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下段の池で発見された「橋」もしくは「船」の材
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下段の池に望む掘立柱建物(4間以上×2間、柱間約2m弱)
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巨石、石敷き遺構、井戸に似た円筒状の石組遺構
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