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私の第三十四夜をつづります。

「統治者の選択」

 図書館の棚から薄い文庫本を選んだ。
 『民主主義の本質と価値 他一篇』(ハンス・ケルゼン 著 長尾龍一・植田俊太郎 訳 岩波文庫 2015年)。

 何よりも、タイトルが眼を引いた。
 ”民主主義の本質と価値”…について、私は何も知らない、と思った。
 2015年の夏以降、”民主主義って何だ!”これだ!”のコールが、時折、耳の奥によみがえってくるようになった。
 ”これだ!”とされているものは何か? 自分でも答えが分からないままだ、と思った。
 
 「民主主義の本質と価値 第二版、1929年)は全10章で構成され、そのあとに、「民主主義の擁護」(1932年)が収められている。著者のケルゼンという名も初めて(……)なのだった。そして、100年近く前に発表されているものなのだった。でも、きっと今の私が知るべきことが書かれているのだ、と思った。

 電車の中で、待合室で、私にも理解できそうな章から読み始める。
 ”理解したい”という気持ちだけが前のめりになる。しかし、すらすらとは読めない。

 昨夜、読んだ「第8章 統治者の選択」のなかで、21世紀の日本の現状に即したものとして、そのまま素直に頭に入ってきた部分があった。その文に励まされ、なぜか安心したような気持ちになった。
 以下に、その部分を引用しておこうと思う。
 私の納得がもし一人よがりなものであったとしても、この文になぜか励まされて眠りについたことは確かなので…。
                       (太字:原文では ``` の傍点付き。青字:原文では ¨ のウムラウト付き)

「 民主主義 イデオロギー体系においては、統治者の創造という問題は、合理的衡量の焦点をなしている。統治者の地位は絶対的価値ではなく、単なる相対的価値に過ぎない。統治者が「統治者」とみなされるのは、特定期間・特定分野においてに過ぎず、それ以外の点では仲間と同等で、批判の対象となる。専制支配においては、統治行為は 機密保持 (Geheimhaltung)の原則に支配されるが、民主主義の統治行為の原則は 公開性
 (Publizitt)である。民主主義の統治者は共同体内在的(immanent)であるのに対し、専制支配の統治者は共同体超越的(transzendent)であり、そこから支配権を行使する人間は、常に社会秩序の下ではなく、その上に立つものとイメージされ、無答責とされる。それに対し 統治者の責任 ということこそ、現実の民主主義特有の特徴 である。特に重要なのは、民主主義における統治者の地位は超自然的性質をもたず、常人が統治者へと作り上げられることである。そこでは統治者の地位は一者ないし少数者の永続的独占ではない。現実の民主主義 においては、多少とも頻繁な 統治者の交替 という光景が見られる。もとよりここでも、統治者がその地位に執着するという傾向は見られるが、それは抵抗に遭遇せざるを得ない。その抵抗の源泉は、何よりも、人々を行動に駆り立てる心の内のイデオロギーにある。統治者の在り方の合理化、それに伴う「公開性」・「批判」・「責任」・「統治者は自由な創造の対象であるという観念」が終身統治者を不可能にするのである。しかし、統治者の存在が長期化するに従って、統治者の在り方に関するイデオロギーも変化する。現実の民主主義を特徴づけるのは、統治者の共同体からリーダーの地位への恒常的な上昇潮流 の存在である。(誤解を避けるために注記するが、ここで主として論じているのは、国家の政府 に表現される国家 の統治であって、政党 内のリーダーシップではないことである。)」
「 民主主義においては、実績主義と批判の自由という原則が支配し、行政上の不都合が容易かつ迅速に 明るみに出される ことも、これと深く関わっている。それに対し専制支配においては、いったん任命した官吏の権威を擁護するという保守的原則が支配し、隠蔽の体系 という伝統が発達する。」